イスラム哲学の原像

英語。特殊講義、コレラと公衆衛生。

青い恐怖 白い街―コレラ流行と近代ヨーロッパ

青い恐怖 白い街―コレラ流行と近代ヨーロッパ

泥縄的にイスラム哲学の概説書をめくる。コプチェクやジュパンチッチのまとめでは、ラカンセミネール20巻の性別化の式の女性の側は、要するに信仰者を指すことになるのだと思う。「女」の享楽の空間は、表面上はなにも変わったことのない現実的なものだが、無限に深い。キリスト教の文脈では、イエスという一人の人間に神が宿るという二重性がこれにあたる、とジジェクならひじょうに強調するところだが、イエスの形象を離れて一般化しようとするとどうなるか。アンリ・コルバンのイブン・アラビー解釈では、神秘体験において浮かび上がってくるような「アーキタイプ的形象(イマージュ)」は、現実に目に見えるイマージュでありながら、それだけではない多様な層を抱える。これが(imaginary world と区別される)「イマジナルな世界」だ。たしかにこれはラカンのいう、現実世界内に存在する対象aに近い。今回イブン・アラビーを呼び出しているコプチェクの理屈は、なるほど一貫している。
詩やアートについて語るとき、あるいは愛一般について語るとき、どこかで神秘主義にならないことは難しい。そうでないように見えるのは、芸術経験という神秘的経験を語る語法が長年のあいだ磨かれてきて、スーフィズムのような狭義の神秘主義を連想させない独自性がすでに確立されているからにすぎない。ラカンのやったことは、フロイトが懸命に避けた神秘化を、ごくあっさりと理論化したことなのだとすら言える。それでも批評家は、自分が神秘主義者であることはなかなか認めたがらないし、なんとか神秘主義を回避して語ろうとするものだ。コプチェク自身は、「別の世界」ではなくて、あくまで現実世界に属す「イマージュ」(対象a)を強調する自分の姿勢は、彼岸に向かっていないという意味で超越的でないと言うかもしれない。ただしイスラム神秘主義哲学においては、まさにそうして現実世界に神の顕現を見ることが「神秘体験」なわけだが。
イスラーム哲学の原像 (岩波新書)

イスラーム哲学の原像 (岩波新書)

時の現象学〈1〉 (エラノス叢書)

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