天使

1年ゼミ『生きるべきか死ぬべきか』、ポーランドと第二次大戦の経過など。文学理論、構造人類学。会議。
Henri Corbin, "Mundus Imaginalis, or the Imaginary and the Imaginal" http://www.hermetic.com/bey/mundus_imaginalis.htm。『現代思想』1994年10月号「特集・天使というメディア」再読、とくにコルバン「人と守護天使」、鈴木規夫「天使たちのロゴス」、田崎英明「地上に神殿を持たぬ声」。この号充実してるなあ。一神教においては、神そのものを見ることはなかなかできないので、その神の声を伝える天使、あるいは神的なものを垣間見させる天使的存在(スフラワルディーによれば、あらゆる人間は本来天使的存在を含む)がどうしても必要になる。天使を措定しておかないと、各人勝手に神秘体験と名乗るものが、本当に神とつながったものなのかどうか理念的に区別できない。
コプチェクは、コルバンのいう「イマジナルな世界」を漠然とラカンの「想像=鏡像界」と重ねて、ムスリム神秘主義精神分析化、つまり非宗教化しているのだが、素朴な疑問点は、こういう見かたにおける神の顕現とか、天使的形象というのは、もはや別な世界とこちらの世界を結ぶ「メディア=媒体」ではないというところにある。それ自体が独立した経験なのだ。コプチェクの意図は、まさに「別な世界」を語らずに地上の神秘性(対象a)を語ることなのだが、隠れた神の絶対性が想定されてないなら、神秘体験はますます恣意的に、なんというか言ったもの勝ちになる。対象a は私的なものだから、そうなるしかないと言ってしまえばそれまでだが、こうやって宗教的文脈と接合されると、その自分勝手な性質がいっそう強調されることになる。それでいいのかなあ?
田崎さんはここで、受胎告知の形象化(イマージュ化)について、コルバンのいうようなイマージュの具体的神秘性を想起するような書き方をした上で、その後イマージュよりも言語の話をしている。人間は言葉の手前におり、だから天使が降りて人間に言葉を与えてくれる。しかし最初の言葉は真理でありつつ人間には理解されず、人はそれを歌うしかないのだから、「言葉」の位相とイマージュの位相は、ここではそれほど違わないのかもしれない。ラカン派の批評家が、こんな風に詩的に言語を語ることはあまりないのだが、今回コプチェクはお茶の水のペーパーで、『風が吹くまま』でドキュメンタリー作家が少女に向けて詩を暗誦するところを論じている。ことばの形象化の契機、というような話にはたしてなるだろうか。