4分の3オンス

常に自分の美学と自意識とナルティシズムに挟まれ

好奇心、探究心、そしてほんのちょっとの猜疑心を持ち、冷静でいながらぬけていて、繊細でがさつで大胆で行動的で臆病で

鼻持ちならない奴かと思えば愛嬌があり、周りを気にするかと思えば我侭でマイペース

冷たいと思えばそれでいて優しく、冷静と情熱が入り交じり
自惚れと照れが絡み合う


小さな手に沢山の本を持ち、小さな体でエネルギッシュに走り回って、小さな頭をフル活動、最後の最後まで仕事の心配をし、後ろを振り返らず、自分の欲望に忠実に。

相棒で私の半分でソウルメイトで相方で

10月11日 午後4時56分
享年38歳

彼は逝ってしまいました。

たくさんの愛

たくさんの励まし、たくさんの祈りを持って

いい友人を沢山沢山、たくさん持っていた彼をあらためて
「ラッキーな奴」だったのだなと羨ましく思い

そして、みなさんにお礼を申し上げたいと思います

本当に、本当にありがとうございました。


この日記にコメントはいりません

かわりに彼のために酒で乾杯してやって下さい

そして、そしてあなたの隣にいる愛しい人にたくさんのハグを

inui

歴史主義の中心で/の「歴史」を叫ぶ

非常勤1コマ。コプチェクの明後日の駒場での発表原稿――がじつはまだ完成していないのですが、当日配る日本語訳をコピーしてる時間ももうないわけで、「ほぼ完成稿」の翻訳を駒場に送る。
『英語青年』10月号(1892号)・特集「精読と英文学研究」。真野泰「翻訳と精読」は、例に出す英文の選択が流石。受験英語的英文和訳では翻訳にならない、というのは誰でもいえるが、具体例がどう出せるかが書き手の違いというものだろう。
遠藤不比人「歴史主義の中心で/の『歴史』を叫ぶ」にはこうある。「知的な海千山千といってよい同業者が、『文学』をまともに語るとなると、屈折と屈託に満ち満ちた文章を綴らざるを得ないか、それと裏表で、戦略的なノンシャランを気取らなくてはならない(じつは『天然』という説も...)、そういった方々を個人的に存じ上げているつもりだが……」(401)。これって(後者のこと)もしかして俺のこと? さらに「学会関連の二次会などの酒席に連なると、聞くともなく聞こえてくるのは、『批評理論というバブルがはじけたあと、文学研究は地に足のついた(実証的な)歴史的アプローチの時代に入った』とかいう『若手』の『歴史意識』であったりして……」。これって、なんか「英文学東京若手の会」でいつぞややったパネル http://d.hatena.ne.jp/toshim/20051001 のときに、司会としてわたしも口にしていたような……。
自分でもたしかに「歴史」ということばを割に素朴に使っていると思う。もちろん言説論以降の「歴史」であって、遠藤さんが例としてあげている、「ウルフとクラインの関係を論じたいならウルフがクラインを読んだという証拠を出せ」と言い切ったある思想史家のいう意味での「実証主義」とはレベルが違う。この例をもってきてしまうと、ディシプリンとしての歴史学と文学の対比が必要以上に、また現実以上に強められてしまうような気も。それでも、あるところまでベタな「実証主義」でかまわない、という思いは全然消えない。そういうやりかたでやれることはいくらでもある。まあ「考えて悩む暇があったらリサーチしろ」という気分か。「理論的」な仕事だって、自分で考えて行き詰ってるくらいなら他人の本を読んでたほうがましだ。遠藤さんには怒られると思いますが、わたしには依然として、大部分の文学研究者は「考えすぎ」に見えるのです。

天使

1年ゼミ『生きるべきか死ぬべきか』、ポーランドと第二次大戦の経過など。文学理論、構造人類学。会議。
Henri Corbin, "Mundus Imaginalis, or the Imaginary and the Imaginal" http://www.hermetic.com/bey/mundus_imaginalis.htm。『現代思想』1994年10月号「特集・天使というメディア」再読、とくにコルバン「人と守護天使」、鈴木規夫「天使たちのロゴス」、田崎英明「地上に神殿を持たぬ声」。この号充実してるなあ。一神教においては、神そのものを見ることはなかなかできないので、その神の声を伝える天使、あるいは神的なものを垣間見させる天使的存在(スフラワルディーによれば、あらゆる人間は本来天使的存在を含む)がどうしても必要になる。天使を措定しておかないと、各人勝手に神秘体験と名乗るものが、本当に神とつながったものなのかどうか理念的に区別できない。
コプチェクは、コルバンのいう「イマジナルな世界」を漠然とラカンの「想像=鏡像界」と重ねて、ムスリム神秘主義精神分析化、つまり非宗教化しているのだが、素朴な疑問点は、こういう見かたにおける神の顕現とか、天使的形象というのは、もはや別な世界とこちらの世界を結ぶ「メディア=媒体」ではないというところにある。それ自体が独立した経験なのだ。コプチェクの意図は、まさに「別な世界」を語らずに地上の神秘性(対象a)を語ることなのだが、隠れた神の絶対性が想定されてないなら、神秘体験はますます恣意的に、なんというか言ったもの勝ちになる。対象a は私的なものだから、そうなるしかないと言ってしまえばそれまでだが、こうやって宗教的文脈と接合されると、その自分勝手な性質がいっそう強調されることになる。それでいいのかなあ?
田崎さんはここで、受胎告知の形象化(イマージュ化)について、コルバンのいうようなイマージュの具体的神秘性を想起するような書き方をした上で、その後イマージュよりも言語の話をしている。人間は言葉の手前におり、だから天使が降りて人間に言葉を与えてくれる。しかし最初の言葉は真理でありつつ人間には理解されず、人はそれを歌うしかないのだから、「言葉」の位相とイマージュの位相は、ここではそれほど違わないのかもしれない。ラカン派の批評家が、こんな風に詩的に言語を語ることはあまりないのだが、今回コプチェクはお茶の水のペーパーで、『風が吹くまま』でドキュメンタリー作家が少女に向けて詩を暗誦するところを論じている。ことばの形象化の契機、というような話にはたしてなるだろうか。

大山倍達正伝

大山倍達正伝

大山倍達正伝

この本が分厚いのは、伝記が直線的に流れないから。大山自身の本や語り、『空手バカ一代』の相互に矛盾する情報の分厚い藪をくぐって、なんとか大山倍達こと崔永宜(チェ・ヨンイ)の実像に迫るのに、一々手間がかかるためだ。元『新極真空手』の編集者だった著者らは、とりあえず大山のことばを最初から疑うことはせず、それが真実である可能性を捨てずに調査を続けていく。そこからたとえば(昔からみんなふかしだと思ってた)早稲田入学は事実である、なんてことがわかる。とくに終戦から七年間、空手の修行をしながら建青の民族運動(と朝連との喧嘩)にあけくれる時期が面白い。あたりまえだが「日本人・大山倍達」の自伝語りには抜け落ちていた時期だからだ。建青でつるんでいた後の東声会会長・町井久之が、後の回想では日本人ヤクザとして現れるとか、朝連との喧嘩の模様が、日本女性に手を出した米兵を殴り倒したという回想に流れ込んでたりとか。
書評ではたいがい、いかに「伝説」が嘘の上に嘘を重ねて作られたか、「牛との格闘」もアメリカ遠征もそんな華々しいものではなかった、というとこが強調されてるようだが、同時にその嘘を隠し通そうともしていない大山のあっけらかんとした感じも印象的。力道山がとにかく自分が朝鮮人であることをひたかくしにして、友人の焼肉屋にすら深夜にしか行かなかったくらいなのに、大山は稽古の後にはキムチ鍋を弟子にふるまい、すでに1954、55年頃の『オール讀物』や『丸』で、自分の出自を明かしている。メディア・スターとして不特定多数の観客を相手にしていた力道山と、目の前の弟子たちをおもに相手にしていた大山ではそりゃあ態度も違ってくるだろうが、大山のなんとなくのほほんとした愛嬌がよく出ていると思う。

チョコレート工場

若干体調不良。コプチェクを囲んでのクローズド・セッションのための短い原稿。三年前に日本語で書いたものの抜粋を英語にするだけだから気が楽、のはずなのだが、書いているうちに自分がやっていた誤読に気がつく。コプチェクもジュパンチッチも、サディズムを「犠牲者は永遠に死なない状態で苦悶が続く」というやや狭い定義の上で議論していて、たとえばドン・ジュアンなどとはいちおう概念として区別している。わたしのはもっと大雑把な話なのだが、さてどうごまかすか。

リアルの倫理―カントとラカン

リアルの倫理―カントとラカン

ゼミ、Dracula, chap.18、谷内田浩正「恐怖の修辞学」第1部(『現代思想』1994年7月号)。卒論ゼミ、Mark I West, Roald Dahl (Twayne's English Authors Series) (1992)。ウンパ・ルンパが人種差別として初版当時批判された話とか。卒論としては、ダールを批判する「真面目な」児童文学批評家のことばを引用した上で叩くのがいいはずだが、「そういうことを言ってる人って誰ですか」と聞かれても困る。
Charlie and the Chocolate Factory (My Roald Dahl)

Charlie and the Chocolate Factory (My Roald Dahl)

 

ハマースミスのうじ虫

ペパカフェフォレストでシーフードサラダとか。犬を連れてまともな食事ができる店はほんとうに少ないので、ここによく来ることになってしまう。ビーグル犬サラのお散歩日記 http://beagle-sarah.a-thera.jp/ とか見ていても、行きたいと思う店がそう多いわけではなく。

ハマースミスのうじ虫 (創元推理文庫)

ハマースミスのうじ虫 (創元推理文庫)

原著1955。名高い古典的名作が新訳で登場です。ミステリとしては、後半、探偵役と犯人役の視点が同じ章のなかでめまぐるしく、しかもほとんど同じ文体で入れ替わっていくところが見もの。探偵役のワイン商キャソン・デューカーの、仕事柄当然とはいえ嫌味なほどの食通ぶり、高級生活感が、事件のテーマと深く関わっている。ハマースミスというロンドンの凡庸な郊外を舞台としたこの小説は、郊外に住まいつつ、キャソンが体現しているような高級クラブのメンバー的な「一流の生活」に憧れるロウアー・ミドル・クラスのスノッブ志向をテーマにしたサスペンスだからだ。ハマースミスの中央通りはこんな風に描かれている。

北に伸びる通りは、心浮き立つ五月の陽光の下でさえ殺風景に見えたが、それは中産階級の俗物根性が凝り固まってできた殺風景さだった。似通ったお上品な中期ヴィクトリア朝様式の家が並んで、それぞれが隣家に挟まれるようにきっちり建っている光景は、自由思想家や急進派や進化論者の攻撃や、メイポールダンスの騒ぎから身を守るために肩を寄せて支えあっているかのようだ。ヴィクトリア朝の事物について齧ったことのある者の目で見れば、ここは醜悪な通りではない。家並みそのものに信念の力強さがある。虚飾に走ることなく、パラディオ様式もどきの壮麗さを出そうという企てもない。そんなことをしていたら、乾物屋が伯爵の位を要求するようなちぐはぐな雰囲気が漂っているだろう。ここは、少しばかり景気のよい小商人が、賑やかな家族とひしめき合って暮らすために作られた場所なのだ。遠近法の視点で眺めると、カナレットの画風に似た、同じ幾何学模様の無限の繰り返しを思わせるところがある。だが、建築業者の構想が不徹底なせいで窮屈に見える。ここには喜ばしさが欠けている。街路樹の一本もないこの通りは、ほどほどの野心を体現した通りだった。(75-76)

ロンドン都市論に、またイギリス中産下層階級のスノッブ文化に関心のある方に、広くお奨め。

イスラム哲学の原像

英語。特殊講義、コレラと公衆衛生。

青い恐怖 白い街―コレラ流行と近代ヨーロッパ

青い恐怖 白い街―コレラ流行と近代ヨーロッパ

泥縄的にイスラム哲学の概説書をめくる。コプチェクやジュパンチッチのまとめでは、ラカンセミネール20巻の性別化の式の女性の側は、要するに信仰者を指すことになるのだと思う。「女」の享楽の空間は、表面上はなにも変わったことのない現実的なものだが、無限に深い。キリスト教の文脈では、イエスという一人の人間に神が宿るという二重性がこれにあたる、とジジェクならひじょうに強調するところだが、イエスの形象を離れて一般化しようとするとどうなるか。アンリ・コルバンのイブン・アラビー解釈では、神秘体験において浮かび上がってくるような「アーキタイプ的形象(イマージュ)」は、現実に目に見えるイマージュでありながら、それだけではない多様な層を抱える。これが(imaginary world と区別される)「イマジナルな世界」だ。たしかにこれはラカンのいう、現実世界内に存在する対象aに近い。今回イブン・アラビーを呼び出しているコプチェクの理屈は、なるほど一貫している。
詩やアートについて語るとき、あるいは愛一般について語るとき、どこかで神秘主義にならないことは難しい。そうでないように見えるのは、芸術経験という神秘的経験を語る語法が長年のあいだ磨かれてきて、スーフィズムのような狭義の神秘主義を連想させない独自性がすでに確立されているからにすぎない。ラカンのやったことは、フロイトが懸命に避けた神秘化を、ごくあっさりと理論化したことなのだとすら言える。それでも批評家は、自分が神秘主義者であることはなかなか認めたがらないし、なんとか神秘主義を回避して語ろうとするものだ。コプチェク自身は、「別の世界」ではなくて、あくまで現実世界に属す「イマージュ」(対象a)を強調する自分の姿勢は、彼岸に向かっていないという意味で超越的でないと言うかもしれない。ただしイスラム神秘主義哲学においては、まさにそうして現実世界に神の顕現を見ることが「神秘体験」なわけだが。
イスラーム哲学の原像 (岩波新書)

イスラーム哲学の原像 (岩波新書)

時の現象学〈1〉 (エラノス叢書)

時の現象学〈1〉 (エラノス叢書)