歴史主義の中心で/の「歴史」を叫ぶ

非常勤1コマ。コプチェクの明後日の駒場での発表原稿――がじつはまだ完成していないのですが、当日配る日本語訳をコピーしてる時間ももうないわけで、「ほぼ完成稿」の翻訳を駒場に送る。
『英語青年』10月号(1892号)・特集「精読と英文学研究」。真野泰「翻訳と精読」は、例に出す英文の選択が流石。受験英語的英文和訳では翻訳にならない、というのは誰でもいえるが、具体例がどう出せるかが書き手の違いというものだろう。
遠藤不比人「歴史主義の中心で/の『歴史』を叫ぶ」にはこうある。「知的な海千山千といってよい同業者が、『文学』をまともに語るとなると、屈折と屈託に満ち満ちた文章を綴らざるを得ないか、それと裏表で、戦略的なノンシャランを気取らなくてはならない(じつは『天然』という説も...)、そういった方々を個人的に存じ上げているつもりだが……」(401)。これって(後者のこと)もしかして俺のこと? さらに「学会関連の二次会などの酒席に連なると、聞くともなく聞こえてくるのは、『批評理論というバブルがはじけたあと、文学研究は地に足のついた(実証的な)歴史的アプローチの時代に入った』とかいう『若手』の『歴史意識』であったりして……」。これって、なんか「英文学東京若手の会」でいつぞややったパネル http://d.hatena.ne.jp/toshim/20051001 のときに、司会としてわたしも口にしていたような……。
自分でもたしかに「歴史」ということばを割に素朴に使っていると思う。もちろん言説論以降の「歴史」であって、遠藤さんが例としてあげている、「ウルフとクラインの関係を論じたいならウルフがクラインを読んだという証拠を出せ」と言い切ったある思想史家のいう意味での「実証主義」とはレベルが違う。この例をもってきてしまうと、ディシプリンとしての歴史学と文学の対比が必要以上に、また現実以上に強められてしまうような気も。それでも、あるところまでベタな「実証主義」でかまわない、という思いは全然消えない。そういうやりかたでやれることはいくらでもある。まあ「考えて悩む暇があったらリサーチしろ」という気分か。「理論的」な仕事だって、自分で考えて行き詰ってるくらいなら他人の本を読んでたほうがましだ。遠藤さんには怒られると思いますが、わたしには依然として、大部分の文学研究者は「考えすぎ」に見えるのです。