風が吹くまま
『現代思想』バトラー特集の校正、翻訳の解題。ゼミ、新図書館のキノコ型セミナールームで Dracula, chap.17。Phyllis A Roth, "Suddenly Sexual Women in Dracula" 抜粋。卒論ゼミ、夏休み中に進んだ草稿のチェック。ただし皆まだ本論に入ってない感じ。割引優待券を貰ったので GAP で買い物。nabe氏、ありがとう。何年ぶりかでシャポールージュで子牛のパン粉焼き。帰りに、今日が最終営業日のいせや本店を見に行く。十重二十重、は大げさだが、五重くらいに立ち飲みの客が取り巻いている。もう一回くらい二階で飲みたかったかなあ。吉祥寺老舗の宵。
コプチェクのセミナーに備えてキアロスタミ作品の見直し。二度の講演でとくに取り上げられるのは『風が吹くまま』。イラン映画の規制下では、ヒジャブをつけていない女性を映すことができない。そのためキアロスタミを初めとする多くの作家は、戸外を主に撮っている。室内で家族だけのシーンでヒジャブをつけている女性は不自然だからだ。『風が吹くまま』では、じつは屋内シーンがある。キアロスタミの分身的存在である監督が、牛乳を貰いに村の立て込んだ住居の暗い室内に入っていく場面だ。暗いから、中の娘の頭部は映らない。ここはけっこう批判も受ける場所で、イメージ的にも、暗い秘所に入っていくことが女性に接近することでもあるという意味で凡庸化が起きている。コプチェクがこのへん、どう料理するのか。駒場の講演では、監督が髭を剃っている、鏡の側から見たショット――監督の背後に、向かいの家に住む女が映る――を重視するらしい。たしかにここ、会話を交わしている二人が同じ画面に入っている、キアロスタミでは珍しいショットなのだ(『風が吹くまま』では、子ども以外はその種のショットはほとんどこれのみ)。できれば理論上のコメントではなく(それは他の人もやるだろうから)、映画について反応したいんだが、何を言うべきかうまくまとまらない。