Body Economics、culture、ヘンリー・コール

ヴィクトリア朝研究会@成蹊、出席者13名。

The Body Economic: Life, Death, And Sensation In Political Economy And The Victorian Novel

The Body Economic: Life, Death, And Sensation In Political Economy And The Victorian Novel

解題発表。地主の所得や利子論はどうなっているのか、という質問をうける。この本はヴィクトリア朝小説とスミス〜マルサスベンサムジェヴォンズという経済学の系譜がじつはいかに通底するものがあるか、という議論をしていて、その中心になるのが経済学でも消えていない「生命」「身体」のイメージなのだが、たしかに不労所得はこの本の議論には入ってこない。労働価値説ではどうなってるんだっけ。Fさんから、人口を抑制すべきという言説と、人口圧力を利用して人類を進歩させるべきという言説と、世紀末で対立するというより対立しつつ入れ交じり合う二つの思想が、世紀半ばではどうなっているのかと聞かれる。大問題。
田中裕介「culture の語用変遷試論――1860年代の『タイムズ』を中心に」。マシュー・アーノルド『教養と無秩序』の culture という語は、はたしていつから「教育・教養」という含意から、『一国の文化の最上のもの」という意味にシフトしたのかを検証する試み。19世紀の前半では、culture はほぼ完全に「耕作」「栽培」の意味で、現在の意味は世紀半ばから、かなりの程度ドイツ語の Kulture の訳語として定着してきたというのは初めて知った。おそらくこのテーマを徹底するためには、『タイムズ』では不十分で、ドイツ哲学の翻訳や、人類学の議論を含みこむ必要がある。いったいどこまでやればいいのか……。田中さんだとやってしまいそうなのが恐い。
三宅敦子「Hard Times と Henry Cole――よい趣味への抵抗」。ディケンズHard Timesの冒頭で、コールを馬鹿にしているような一節を書いている。現代的な「モダン」なインテリアは、花や馬を絨毯に書いたりしない。そんな現実表象的なものは「ファンシー」であって「ファクト」ではなく、だから功利主義者には馬鹿にされるというのがこの小説のプログラムだ。世紀なかばで、平面性こそデザインの要で、陰影をつけたり無意味にリアリスティックな絵を作ったりはダメ、というたぶん大陸を模倣した路線を暗に批判しているようにみえるのだ。ディケンズは自分が「悪趣味」であることをよく承知していた。1852年の Household Words には、モールバラ・ギャラリーに House of Horrors なるものがあって、悪趣味インテリアがずらりと並べられている、という設定のサタイアが載っている。ディケンズは、「いい趣味の家でなければ」という強迫観念を風刺していると思しい。当時の万博関連のインテリア書が一様に称える「平面性」(花柄などを写実的に書いたりしてはならない)というのが、一種モダニズム的で面白かった。
吉祥菜館、のろ。翻訳の難しさとか。