Giving an Account of Oneself

TV「残菊物語」(松竹1939)。ああもう夏も終わりだなあ。障子を開き、御簾を上げた夏の日本家屋の奥行きがあれば、幾人も幾人もの所作が一つの画面のなかで進行していくことができる。菊乃助が芸に悩んで鬱屈しているあいだにも、向こうではあたりまえに御用聞きが走り、出番待ちの連中が花札をめくる。遠くの団扇も近くの団扇もいっせいに動く。

Giving an Account of Oneself

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再読。前回読んだときは、全3章のつながりと差異がよくわからない、といったことを書いたが、今回読んでもその印象はあまり変わらない。1章ではおもにヘーゲルを扱って、「わたし」と「他者=あなた」の関係は真空のなかの二者関係ではなく、あくまで規範のなかで生起する、と強調されている。いっぽう2章はおもにラプランシュで、子どもにとって圧倒的な謎として現れる最初の外界、他者の存在が論じられている。で、後者においては、規範というのは立ち現れてこない。これは、前者が主体化された後の物語、後者はそれに先立つ物語、というふうに整理すればいちおう整理できるが、読んでいると、あれだけ規範の先行性をうるさく言ってたのが、「根源的出会い」みたいなものの検討に横滑りしているような印象をうける。もっともこの隙間からいろいろ話を進めることはできそうで、たとえば、他者にとっての象徴界を垣間見ることの意味――幼児は最初それに気づかないが、親にとっても「謎のごとき他者」がいると気づいた時点で主体化が起こる、とか――を考えることもできそう。
前回読み逃していたのは、アドルノの『道徳哲学の諸問題』で触れられている「非人間」という概念が、「人間性」と意志を結びつけたうえで人間を称えようといった姿勢の反論としてもってこられていること。人間は意志をもって自由だが、非人間≒動物は存在に縛られていて不自由である、として、じつは人間もまた規範に縛られて不自由であるしかなく、そのうえで他者との関係を思考せよ、ということになる。バトラーが非人間という概念を口にするのが面白いのは、彼女がまずもって言語論の人だからだ。ここで言っている「非人間」が言語の外にあるとはとても思えない。ここで起こっているのは、「言語」がある種自然化されるということだろうか。動物の言語はまちがうことがないが、人間の言語は発話者を裏切る、というアガンベンのことばを思い出したり。