Towards a Materialist Theory of Becoming

杉並で粗大ゴミを処理場に持っていこうとすると、郵送で書類が届く。書類の品目欄、捨てるのは折り畳みペットケージのはずなのに、「オーディオラック」とある。なんかの間違いかもと思い窓口に電話すると「品目分類表にはペットケージがないので、オーディオラックと表記しました。こちらのメモには正確に載っています」だって。なんだそりゃ。処理場の帰りに和田堀公園をぶらぶら。観光地化されてなくて、いいとこだ。

Metamorphoses: Towards a Materialist Theory of Becoming (Short Introductions)

Metamorphoses: Towards a Materialist Theory of Becoming (Short Introductions)

おもに第1章と「女/動物/虫になること」というタイトルの第3章。ドゥルーズをベースに、女や昆虫や機械が生成変化――という日本語訳を、ドゥルーズの devenir につけることにどうもなっているようだが、むしろたんに「なる」と訳してみたい――する力を論じた本。第1章ではその視点から、北米のセクシュアリティ論、ジュディス・バトラージジェクが批判されている。ブライドッティがいちばん苛々するらしいのは、バトラーやラカン派の主体論が、判を押したように悲劇的でメランコリックな、「根源的喪失」を基盤においたものである点。彼女はもっとポジティヴなことを語りたいし、そのために(バトラーとは違って)言語ではなく身体性、物体性の増殖のほうに目を向けたい。この対立は、理論的厳密さがどうとかというより、人生観の違いとか、そういったものだろう。
女性独自の身体性の直視、といったことを言っているが、その基盤として「母」と娘の関係と別離を置いているようにみえるのは危うそう。べつに子どもを育てるのは女親でなくてよいわけなので、最初の他者が「母」であるのは、経験世界ではその場合が多いからにすぎない。フロイトは母を父=社会に先行する場所においたが、それもまたたんに、現実の家父長制下ではそのほうがよくある事態だからだ、と考えたい気がする。バトラーならこの母と娘の関係に、根源的な同性愛を、そしてその抑圧を読み取るのだが、ブライドッティはこの議論を、異性愛を視野から消すものだと批判しているのが面白い。アメリカのセクシュアリティ論はあまりにゲイ&レズビアン中心になりすぎて、たとえばヘテロの男のセクシュアリティについて真剣に語ることばがほとんどなく、たんに「制度的・抑圧的」なものだとしてすませている、というのだ(ブライドッティ自身はオランダで教えている)。
この批判はけっこう納得。セクシュアリティというとき、問題が「ヘテロ」と「ホモ」の違い、対象選択の違いにまずなってしまい、身体性というのかなんなのか、他の営みとは異なる位相のものとしてのセクシュアリティ、というのがどっかに消える傾向を、たしかにゲイ・スタディーズは抱えている。ヨーロッパの文脈では、イリガライなど、セクシュアリティという身体の営みの特殊性と可能性がしばしば問題にされるが、北米の文脈では、なにからなにまで社会的・言語的ジェンダー規範との関係でまとめられてしまう、というわけだ。セクシュアリティを語るときに、対象への欲望は語られても、実践される身体運動は語られない。SMも、支配/被支配の心的メカニズムで語られることが多いしねえ。