コプチェク、恥じらい、無限

コプチェク勉強会@駒場。出席者14名。

Lacan: The Silent Partners (Wo Es War Series)

Lacan: The Silent Partners (Wo Es War Series)

から、Joan Copjec, "May '68, the Emotional Month"。論集自体は、ラカンと他の哲学・文学者、ヘーゲルバディウシェリングアルトーツルゲーネフとの交差点をいろんな人が論じるものだが、コプチェクのは少し色合いが違っている。むしろ Jacques Lacan And the Other Side of Psychoanalysis: Reflections on Seminar XVII (Sic Series) にこの論文が入っているほうが自然な感じ。いつもながら話があちこちに行くが、軸は情動、恥じらいと不安について。近代科学というかテクノロジーの支配する空間 alethosphere では、快感原則と現実原則は一体化し、人はたえず「享楽せよ!」と命じられる。これはラカンの四言説のシェーマでは、大学の言説の世界ということになり、ここにおいては恥じらいはない。コプチェクの結論自体はある程度予想がつくように、大学の言説内にあるような予想可能な享楽と恥じらいとを対比して、後者には具体的な内容がない、というものだ。上のセミネール17巻についての論集でミレールは、恥じらいと罪責感を対比させて、罪責感の<他者>は判断を行い裁くが、恥じらいの<他者>はそれに先行する、判断せずにただ見ている<他者>だとしている。主体が見られて恥じらいを感ずるとき、なにか具体的に法のレベルで悪いことをしているから恥じらうのではない。ただ自分自身であることに恥じらうのだ。
ここでレヴィナスの「逃走について」が引かれているのが一ひねり。「羞恥のなかに現れるもの、それは自己自身に釘づけにされているという事実に他ならない」。1930年代に書かれたレヴィナスのこの一節を、「ユダヤ人はユダヤ人であることから逃れられない」という風に読まないことは、かえって難しい。しかしこうして主体の「自己自身」を、ナショナル・アイデンティティとか過去の自分とかといった具体的内容へと直結させることは、むしろ反ユダヤ主義者のふるまいだ、とコプチェクはいう。存在の根源的不安・欠如を、具体的なものの喪失と混同しないように、という教えが、ここでも変奏されている。ただコプチェクはいっぽうで、つねに享楽――大学の言説内で命じられるのではなくて、真の享楽――には具体的な対象があってその都度主体は満足する、という言い方もする。それが恥じらいの具体性のなさとどこで切り替わるというか一体化するかが一つ問題だ。
しかし最近のアメリカの批評でレヴィナスが流行してるのはたぶん、9.11以降、アメリカ人が自分たちを「被害者」として意識してることの反映なわけで、なんだかなあ。
レヴィナス・コレクション (ちくま学芸文庫―20世紀クラシックス)

レヴィナス・コレクション (ちくま学芸文庫―20世紀クラシックス)

sue さんは、Salecl ed., Sexuation でのジュパンチッチの議論をうけて、可能無限と実無限の区別に関する話。コプチェクはこの二つを、区別しているようでしていない。可能無限は、10の次には11が、1億の次には1億1が、というように、たえず次を数えることによってパフォーマティヴに、いつまでも閉じないものとして成立するが、実無限は、無限全体を一つの閉じたまとまりとみなす。ジュパンチッチの整理だと、可能無限は男性的な系(つねに先を求め、いつまでも目的に辿りつけない、アキレスが亀に追いつけない関係)で、実無限のほうが女性の系、<他者>と一体化していながらそこにすでに剰余享楽がある状態、を指すことになる。女の享楽を、なにか到達不可能でどこまでも逃げ続けるものとみなすのは、そもそも男性的な悪しき無限の観念で、ラカンの性別化の式の右側(女性の側)が示しているのはそういうことではない。コプチェクなら「手に入る小文字の享楽」というように女性の側を語るところだ。
コプチェク自身が二つの無限を混同しているのではないか、とsue さんは言っていたが、どうだろう。実無限というのはあくまで概念なわけで、具体的に内容を書き出してリスト化しようなどとすると、そこには可能無限的な、いくら数えていっても全体にたどりつかない事態が生ずる。そのときにリストを作ろうとする側はたしかに理屈としては「男性的」な系にいるのかもしれないが、他にどうしろといってもどうしようもないような。これは sueさんと話しているといつも感ずるのだが、sueさんはこの状態について、「全体にいつまでもたどり着かないのにたどり着こうとする→結果女性の享楽は不可能なものにみえる」というたしかにひじょうに男性的な欲望を重視して語るのだが、わたしは、いくら内容を数え上げていっても数えつくせないという事態そのものが、到達不可能なものへの苛烈な(男性的)欲望と不即不離だとは全然思えないのだ。
Sexuation (Sic (Durham, N.C.), 3.)

Sexuation (Sic (Durham, N.C.), 3.)

下北「八百屋」で飲み。およそ恥じらいのない暴露話の連続。E先生がいつまでも免許がとれないのは、教習所で苛められることにいつまでも留まり続ける死の欲望の達成の現れだ、とか。さらに「時代屋」。