オジギソウ&ロレンスの炭鉱都市

筑波イギリス文学会@筑波、出席者十数名。木谷巌「シェリーのオジギソウ表象をめぐる sensitivity と vital principle について」。わたしはコメンテーター。木谷さんには、シェリーの The Sensitive Plant で描かれるオジギソウが、動植物の境界線を超え、また光合成というかたちである種相手のいない単独セクシュアリティを体現している(エラズマス・ダーウィンなどだと、オジギソウはもっとふつうの意味で淫らな草なのだ)ということを指摘した論文があるが、そこではあまり扱っていなかった詩の第二部、第三部を分析し、さらに動物磁気や生気論とも関連づけようとした意欲作。ただ、その関連づけがいまひとつうまくいってない気も。動物磁気や電気の面白さというのは、非生命と生命の境界が曖昧になることで、だからこそ『フランケンシュタイン』という作品はそこに絡んでくるのだが、オジギソウは電気実験にも使われているとはいえ、肝となる境界線は動物と植物とのそれかと。
勝手なことを書くと、この詩の後半は、咲いて枯れてまた花をつけてという植物的な有機的サイクルのなかに、動物的な「個体の死」を包含するというプロジェクトのようにもみえる。結論部の There is no death nor change: their might / Exceeds our organs, which endure / No light, being themselves obscure. というところは、ふつう形而上学的に読まれるが、植物的なサイクルでは死の意味がないという意味に読んでもいいんじゃないだろうか。light の意味の多重性は大問題だが……。ただしそこに、詩の第二部に登場する庭番の Lady とか、オジギソウがあたかも血を流しているかのごとき比喩とか、動物的・個体的な要素がいちどは入ってきて、最後に「死は存在しない」というかたちで無化されるところに意味があるんじゃないか、など。
木下誠「D. H. Lawrence, "Nottingham and the Mining Countryside"(1930) をめぐって」with 齋藤一。ロレンス最晩年のこのエッセイでは、「イギリスの本質は田舎にある」というよくある見解が否定され、コミューン都市というのか、中心の周りに集中した高容積・高人口密度の「都市」とそこに住まう「市民」が、きたるべき社会のために称揚されている。しかもそこに住まうのは、裸で肌と肌とを触れ合い密集する炭鉱夫だ。これを一次大戦、とくに塹壕でのホモエロティックな男同士の触れ合いとだぶらせる論の運び。ロレンスの父親は炭鉱夫だったが、本人はたぶん一度も坑道に下りたことがなく、小説にもそうしたシーンはない。夕張に縁のある齋藤さんは、ロレンスがここで言っている炭鉱夫像がいかに空想的かを強調していた。
この文章、Architectural Review に掲載されたとのこと。都市論の形態としては、イギリスのだらだらしたスプロールをくさし、北イタリアやパリの高密度を讃えるというパターンが、やや左翼的な計画都市への志向と重なるわけだが、それが炭鉱夫の肌の触れ合いという身体イメージにすべっていくところがロレンスならでは。当時のイギリスで初期のル・コルビュジェがどう紹介されていたかとか、関連事項に興味は尽きない。
百香亭で巨大韮饅頭とか。