Book of Addresses

Book of Addresses (Meridian: Crossing Aesthetics)

Book of Addresses (Meridian: Crossing Aesthetics)

Home Address Unknown (On Love, Jealousy, Sexual Difference) と題された前半のみ。序文でも章のあいまでも、二人の架空の話者がその章にコメントするという、日本ではときどきみかけるが英語アカデミズムではめったに見ないやりかた。デリダとナンシーの英訳者として名高い著者は、とてもスタイリスティック。章の始めの話題がいつのまにか逸れていって、あれれと思ううちに終わり、次の章が前の章を引き継ぐかたちで始まる、というパターンもなるほどという感じ。第二章では、Jealousy と envy を対比。デカルト以来の伝統的語法では、jealousy は、自分がすでに(本来?)もっているものを失うかもしれないという思いで、envy は他人がもっていて自分がもっていないものを羨むことだ。ただ penis envy をここに絡めて論じ始めると、そもそも「自分が本来もっている」という状態がありうるのか、という疑問が浮かんでくる。男から見ても、ペニスは「本来もっているもの」と確言できるのだろうか?
第四章のジュディス・バトラー批判は、図式はよくあるものだが、アプローチが変わっている。よく知られているように、バトラーは(生物学的)セックスのほうがむしろ(文化的)ジェンダーによって規定されているのではないかと考えた。その際彼女は、ジェンダーはすでにある生物学的基盤に inscribe(書き込む)のではなく、その基盤を produce(生産する)という二分法を立てている。ふつうこれは、ジェンダーに先行して生物学的セックスを仮定することを拒む姿勢だとみなされた上で、結局ジェンダーのほうを規定的・固定的に捉えてしまっているのじゃないか、と批判されるわけだが、カムフはあくまで、「生産」が「書き込み」よりも基底的だという発想を脱構築的立場からねちねちと批判する。そのうち話が逸れていってデリダハイデガー論に移り、「二分法なき、男女の別なきセクシュアリティの語り方はあるか」という問題を立てる――というより、そうした問題の立て方の構え自体を問題にする――ところが、いちばん面白かった。