<フェミニン>の哲学

“フェミニン”の哲学

“フェミニン”の哲学

後藤浩子初の論文集。ネタが岡崎京子だったり『ゴーゴーバーの経営人類学―バンコク中心部におけるセックスツーリズムに関する微視的研究』だったりするのにニヤリ。基本的に「コンセプトとしての<フェミニン>と、象徴的秩序内部のジェンダー・カテゴリーとしての<女性>を区別する」(148) 立場で、ヘーゲルラカンの、ジェンダー・バイアスがかかかっているといえばかかっている議論を糾弾するのでなしに検討している。個人的には、ドゥルーズの解説部分、たとえば「サディズムとは、現象界の経験を、<純粋否定>という先験的理念がもたらす先験的仮象と一致させようとする果てなき反復の運動であり、いわば思弁的理性の憑依なのだ」(162)といったところにいちばん啓発される。
中絶合法化をめぐる議論――女性の自己決定権の立場からだけでなく、女性をほとんど家畜とみなし群れの健康を守ろうとする国家政策においても、中絶権は合法化される――からはじめて、胎児にとどまらない「自己の中の他者」との共棲関係に進む第9章は圧巻。「<私>と<受精卵>の対立だけが特別視され、そこに国家という仲裁人が介入してくる必要が果たしてあるのだろうか。それは<私>対<大腸菌>の場合と同様に考えられるべきであって、私が大腸菌との関係をどうつけるかを毎度国家に打診する必要はないように、受精卵との関係のつけかたも国家に伺いをたてる必要など本来ないのではないか」(250)。