Pornography, the Theory

犬の移動用の折り畳みソフトクレートを買う。犬も気に入って中でくつろいでくれる。これで旅行の準備も万端だ。二時間後、犬がクレートの入り口を破壊する。
Frances Ferguson, Pornography, the Theory: What Utilitarianism Did to Action (U of Chicago P 2004)。(Amazon USA では買えるが、Japan ではなぜかデータなし)。イントロの原型が Critical Inquiry に載ってから10年。その間もとのを読み返したり、他で発表されたものに目を通しては首を捻りを繰り返し、しかし読んでも読んでもわからない。こうして一冊にまとまったものを読んでも、あんまりわかった気がしない。以下書くことも空想で補ってる分が多い旨、あらかじめ断っときます。
ファーガソンはまず、ポルノが表象にとどまらず、行動と結びつく形式だと強調する。興奮してマスターベーションするなり、不快を感じて糾弾するなり、人をある種の行動に導くのがポルノなのだから、なにが映っているか、語られているかといった表象の内容面でポルノを定義することには意味がない。さらにポルノは、それに興奮するか反発するかという判断を強要する上に、その判断によって人間を、たとえばジェンダー別に分類する。こうした分類とヒエラルキー化は、ポルノの作品内でも、犯す側と犯される側、よりセクシーなものとそうでないもの、を分別するというかたちで立ち上げられる。サドの作品はその典型だ(第二章)。
行動で人間を判断する、というのはまさにベンサム功利主義の思想である。十八世紀市民社会功利主義が生み出したのは、カテゴリカルな善悪や個々人の個性によってではなく、その行動の当否や効率性によって人間を判断するという方法だった。学校の成績などがその例だ。この世界では、社会がある種の基準を作り、個人はそれにのっとった行動を求められる。law of torts(過失責任を問う法)もこの時代の産物だ。絶対の善悪や、主体がなにをしようとしたかという意図が問題なのではなく、行動の結果が裁かれる(なにもしないことで悪い結果をもたらせば、悪意がなくともそれは「悪い行動」だったと裁定される)。
キャサリン・マッキノン(第一章で詳細に論じられている)などは、ポルノがある種の差別的な性行動を男性に教える、あるいは転移させると論じている。功利主義とポルノ、というこの本のタイトルからまず浮かぶのは、そうしてポルノがある種の規律を見るものに教えこむこと、性というプライヴェートなはずの領域も、「なにに興奮すべきか」を指示するというかたちで社会的な規範に組み込まれている、という事態だ。ただしファーガソンは、この規律の教育機能が完全だとは考えない。そもそもある人を喜ばせるポルノに困惑したり腹を立てる人間がいるという時点で、基準は一つではないことがわかる。ただし人はここで、意識的に自分の立場を選ぶというよりは、ポルノに対してどう反応し、どう行動するかで、ある秩序のなかに位置づけられてしまうのだ。
意図ではなく結果が問題とされるのは、芸術作品も同じことだ。芸術作品が芸術と認められるには、判断されないといけない。作り手の意志だけでは十分でないのだ。その意味でポルノと美学は構造的に似ている。『ボヴァリー夫人』(第四章)や『チャタレイ夫人の恋人』(第五章)は猥褻でないと弁護した人々は、たとえばエンマが最後に死ぬことによって、作品全体は性的な不行跡を非難しているのだという議論をした。作品はそのとき、一つの完結した「行動」とみなされて、個々の場面の集積を超えたものになるのだ。さらにいえば、功利主義がカテゴリカルな指令と異なるためには、つねに判断基準が訂正され続けなければならない。判断基準は一定ではなく、たえず見直され、検討され、それに応じて個々人の採点も見直され続ける。そうした営為の連続、社会規範の書き換えの連続がもっとも表面化する場の一つがポルノである、ということだろうか。