VOL

車庫のコンクリにひびが入ったので、修理にきてもらう。犬が夏バテで胃腸を壊す。

VOL 01

VOL 01

やっと読みました。なによりデザインがすばらしい。この雑誌がこうしてあること自体を喜びたいと思う。第一部はランシエールとズーラビクヴィリの翻訳に編集委員が応答する感じで、第二部は高祖岩三郎の色。
わたしがいちばん(悪い意味で)よくわかるのはズーラビクヴィリのドゥルーズ論。現在はたいがいすべてが紋切り型と捉えられてしまう時代で、そこでは真に可能的なもの――潜勢しているが、それがどんなかたちになるか起こってみないとわからないもの――へ期待をかけることができない。要するになにについても先が容易に予想できるような、「可能的」ではなくたんに可能な様態と、そこへ向けたプログラム(たいがいマーケティングなるものとセットで現れる)だけが幅をきかせている。これに対して座談会で松本潤一郎が、ここには「群れ的な様態がない」(21)、組織論がないと言っているのが面白かった。ズーラビクヴィリが言っているような、思いがけず出来事として到来して現実化する、ただし予想できないものとしての可能的なものは、なにしろ予想できないのだから、なにかどっかから降ってくる恩寵みたいなもの、として捉えられがちで、じゃあ運動をどうやっていけばいいのか、という現場的な問いにはなにも答えてくれない。結局答えは、第二部でラファエル・ブエノ他のアクティヴィストたちが語っているように、全体像の見えない、隅から隅までプログラム化するのでないやりかたでなにかを進めていくことが、可能的なものが現実化する可能性を高める(へんなことば遣いだけど)ということなのだと思う。
その意味でデヴィッド・グレーバーが「私は最近、今までわれわれが偶然の出来事と思ってきた歴史的変動の多くが、実は社会運動によるものだったのではないか、と訝り始めています」(92)と語っているのがすごく興味深い。シアトルの蜂起を内部からみていたこのアナーキストが言っているのは、もちろん陰謀史観とかではない。明確なプログラムがあったわけではないが、さりとて完全な偶然というのでもない、新たな歴史の開かれがかつてあったし、いまもある、と彼は言っているわけだ。
座談会ではとくに田崎英明、白石嘉治が大学のネオリベ化についていろいろ言っていて、耳が痛い。非常勤講師をクビにする、つまり人を切って社会的紐帯を切断し、むき出しの個を作り出すことができるやつが有能であるという雰囲気がまかりとっていて、それをまたリストラされる側が「あいつはなにかやってくれそうだ」と賞賛したりする、と田崎さんは言うわけだが、わたしもどうかすると人をクビにする側の人間だからな……。このへん昨日書いたこととかぶるんだが、英文学はこれまで特権階級だったがゆえに、必然的に「抵抗勢力」であり、上からのネオリベに対抗しようとすると、自分たち自身が、ネオリベとまではいかなくても相当せわしない「改革」をやらずにはいられないようなことになっている。「英語」はみんな「役に立つ」と思っていて、そういうまちがった観念で大学・学科を選ぶ受験生を相手にしないと英文科という構造がなりたたないということもある。白石は「文学」を範例として「大学」を考える、つまり功利的でない場を確保するといったことを言っているが、英文科とか英語文学の教員というのは、受験生には功利性を売るようにみせかけるという詐欺を行ってきたわけで、それをネグってしまったらまずいよね、と。