おとずれる記憶、おくりとどける記憶

李静和@銀座ニコンサロン公開講座。客100名余。授業以外で人前で話すのは3年ぶりという李さん。なにかを教え伝えるというのでない語り方は変わらない。銀座には多く済州島の石が使われている。ときどき銀座でその石を踏んで歩いてみる、という話から、いちばんのテーマは「客死」。動いた死者、移動した死者を悼み、弔うこと。生者と死者のあいだを固定せず、また死者の場所を固定せずに悼むことへ。クム・ソニ、オー・ハジ、ユン・ジュンミの映像作品、李静和の詩(とその朝鮮語訳)に高橋悠治が曲をつけた合唱曲「島」のサウンドを流して、「足がなくあること」、自ら幽霊になること、など。この曲は初めて聴いたが、朝鮮語特有の音が上がっていくスラーを写し取った音楽に感じ入る。質問に答えているうちに、具体的内容というか、所有権の付着した「記憶」については語らないという方向性が少し見えてくる。
打ち上げ@素材屋、50人以上。沖縄史のTさん、ペルシャ史のWさん、青土社のMさんなどと話す。現代史が社会学と違ったディシプリンとして成立しうるか、など。英文学業界には優秀な人間はいくらでもいるはずなのに、外に出てこない旨、Mさんに説教される。たしかにこういう場――対抗的な思想の場、といえばいいのか――に自分から顔を出す英文学者って、関東じゅうで指折り数えても7、8人だからなあ。ポストコロニアル文学研とかも数えればもっと多いか。それは英文学が「特権階級」だからというMさんのおことば、ま、そうか。