ネオリベ化する公共圏 壊滅する大学

非常勤1コマ。

ネオリベ化する公共圏

ネオリベ化する公共圏

やはりすが秀実の苗字は出ないですね。昨年12月、早稲田でサークル館の強制撤去(2001年)その他の大学の施策に反対するビラを撒いていた学外者が、教員によって私人逮捕され、警察に引き渡された事件を中心に、大学自治の壊滅を問う論集。すがの序文は、68年以降の大学の転換をコンパクトにまとめてくれている。酒井直樹マイケル・ハート宮沢章夫松沢呉一という執筆陣を見ればわかるように、早稲田の事件だけをめぐっているのではなくて、そこに表れた公共空間やサブカルチャーないし対抗文化の圧殺がいろんな向きから語られている。都立大問題は、初見基が正面から扱っている。
いちばん批判されているのは、いわゆる文化左翼が、イラク戦争ジェンダー問題について発言していている人間ですら、大学という自分たちの場所で起きている事態について沈黙しているという現況で、耳が痛い。わたし自身も、やや理不尽な職場での決定に対して教授会で発言はしても、その後抗議活動などはやったことがない。早稲田に自分が勤めていたとしたらどうだったか。抗議文書に署名くらいはしたと思いたいが、それも中に入ってみないとわからない。
この沈黙に対して、大学当局がより恐怖政治的な管理を強めている、という見方があるが、たぶん問題はそれだけではない。リベラルな教員が沈黙しているのは、こうした「小さな事態」について抗議などして頑張っても、その結果は、まったく理解しあえないとしか思えない同僚とのあいだに泥沼の議論や対立が続くだけだからだ。外からの批判はやりやすい。しかし大学という組織は、少なくとも同格の職(教授どうしとか)のあいだには、お互いの立場と意見を尊重しなければならないという前提があって、それが自治の精神というやつだ。もちろん、そのような場であるからこそ、早稲田の事件のような「言論弾圧」は忌むべきなのだが、弾圧を当然と思っている(そして大学当局の後ろ盾を得ている)同僚相手に延々と議論をするときの徒労感は、けっこう内臓にくる。だって同僚は同僚で、「敵」と言い切れないのだ。この本では、大学の「自治」が機能不全を起こしていることが問題視されているが、ある意味では、民主的な自治があるがゆえに教授会はなににも踏み出せないのである。ネオリベ的な価値観を(意識するとしないとを問わず)内面化した教員は多いし、そうした同僚相手にネゴを続けて時間を使えば、会議の嫌いな同僚をすべて敵に回すことになる。表面上自治が残っており、教授会という正規の発言ルートがあっても、そこでの戦いはひたすら消耗戦だ。しかも、デモや、思想の近い仲間どうしの集会と違って、なんの楽しさもない。と言い訳してみました。
個人的に反省を迫られるのは、自分の業績主義か。仕事なんだから、論文は書くべき、研究発表はするべきだと思っているし、学会や研究プロジェクトの事務仕事を引き受けているのも、(とくに若手の)「仕事の場」の確保が重要だと思っているからだ。しかしこうして次から次へシンポジアムだのワークショップだのやっていれば、当然みんな忙しい。この時期、直接メールでくる案内だけでも、すべての土日に3つくらいずつの企画が重なる。まじめに仕事をしていれば、直接的な政治行動をやってる暇がない。そしてもちろんこうした勤勉な教員のほうが、管理しやすい。忙しい奴は会議も長びかせようとはしないしね。早稲田の事件の反対集会に20人集まった日は、ジュディス・バトラーお茶の水で700人集めた日でもある。学問を、ときに左翼的な学問を熱心にやることは、たんに対抗的な動きに使える時間を奪うのだ。いや、じゃあどうしろって言われても答えに窮しますが。
この本で批判するとしたら、これはたぶんみんな言うことだろうけど、ビラ撒き、シュプレヒコール、街頭署名といった戦術が「古臭い」のではないかという点。これに対して早稲田の集会実行委はこれらを「簡便かつ効率のよい情報伝達・意見集約手段」としているが、すぐその後に「2ちゃんねるmixi に代表される虚偽的な共同意識・情報に幻惑され、コミュニケーションが極限まで空疎になっている」などということばがあって、こんな文を平気で書くやつが、とても「一般学生」に向けてことばを届かせようとしているとは思えない。問題は、大学の圧力が、ビラ撒きといったいわば伝統芸的な「形式」にかかっていること、大学を批判する集会がそうした形式に固執しているようにみえることだ。うちの職場でも、数年前に立て看が一切禁止された。学生部委員会の教員は相当抵抗した末に学園当局に押し切られたのだが、要するに規制されるのは表現の内容そのものではなくて、表現の形式なのだ。内容そのものを規制することはできないから形式を規制し、学外者がビラを撒いていれば「私有地への侵入」として逮捕するというこのやりかたはあまりにもせこい。それに対して愚直な正面の抵抗が必要だ、とビラを撒く側は言うだろうけれど、それも軽快さに欠ける態度だと思う。この本の存在自体は、北島敬三の写真による表紙も含めて、けっこう軽快だとはいえ。