映画の明らかさ キアロスタミ

火曜、会議一つ。今日は1年ゼミ、『スミス都へ行く』。文学理論、『監獄の誕生』。会議、会議。ワールドカップはラウンド16が終わって、今日は休養日。サッカーを観なくてよいのにかなりほっとする。いやほっとするくらいなら観るな、と言われそうだし、実際全試合観ているわけでもないんだけど、実際には観ないという選択肢はないのでありまして。ベスト8の顔ぶれは、98年とよく似ている。シード国が6、シードとほぼ同等の力があると大会前からみなされていたチーム1(クロアチアポルトガル)、それにヨーロッパの中堅国1(デンマークウクライナ)だ。ヨーロッパでの大会では、しばらくこんなものだろうか。

映画の明らかさ―アッバス・キアロスタミ

映画の明らかさ―アッバス・キアロスタミ

イメージは、なにかの表象(代理)ではない。それはただそこにあり、それこそが現実的なものだ。そして映画が生まれて百年たち、われわれは皆すでにハビトゥスとして映画を身体のうちに抱えているのだから、イメージを見る視線はそれ自体が映画とともにある。ナンシーがキアロスタミに見ているのは、ただ見ること――くりかえすが、われわれは映画から逃れて「ただ見る」ことはできないのだと思う――が提示され、見ることと、それ自体で現前するイメージが、「そして人生のように続いていく」運動だ。後半に収められた対談で、キアロスタミが「普通の観客は映画作家に負けない長所をもっていると思います」と語り、レストランや家の中で他の人々を見つめる普通の人々を挙げるのに対して、ナンシーは「人がそのように見つめる時、人はすでに映画作家や画家、写真家や小説家等の視線を持っている、と言いましょう。私の視線は映画作家たちによって、私が見た映画や写真によって教育されている」(112)と答えている。
『そして人生は続く』や「クローズ・アップ』をメタフィクションとして、映画についての映画として論ずるのは難しいことではないが、ナンシーはそうした見方を否定する。キアロスタミは現実と表象との関係を描いているのではなく、詐術的な演出も含めて、映画の視線が立ち上がるところをただ見ているのだ。
訳者解説がたいへんに懇切丁寧でありがたい。イメージと現前性の哲学的議論に関心があるかたは、こっちだけ読んでもいいような。