マルクスの使いみち

マルクスの使いみち

マルクスの使いみち

経済学の啓蒙書を読むのはわたしの道楽であり、こうして数理経済学(によるマルクスの再解釈)の先端を数式なしで紹介してくれる企画にはとにかく感謝。わたしも稲葉のいう「人文系中流へたれ」であるのだし。吉原直毅は話をもりあげるより自分の議論の一貫性を重視しているので、けっして読みやすくないが、少なくともローマーに目を通してみようかと思わせる。
本のヤマは第二章。ここでは稲葉、松尾の対話に後から吉原が長々と書き加えて、松尾の労働搾取概念をていねいに批判している。松尾の搾取概念はおもしろくて、労働者が自分の生産した財を自分では使えないときに搾取があるというものだ。自分ではけっして買うことのない高級品を作ったり、自分では立ち入れもしない高級リゾートの建設現場にいる労働者は、その労働と受け取る対価とのあいだにずれがある。利潤はすべて搾取から生じるという超古典的マルクス読解では、利潤そのものを否定して資本経済を認めないという不毛な論法にしか陥らない。それは止めた上で、まだ搾取概念を理論の中心におけるのか、という問いだ。これに対して吉原は、搾取が現にありそれが社会問題であることは認めた上で、それが経済理論の基盤原理となることに異を唱える。
もっともこのへんの議論は、本職の経済学者か、「原理論オタ」でない限り、あんまり意味がないような気も。労働価値説にせよ、搾取説にせよ、それが経済のすべての基盤となる原理であるとほんとうに信じているやつなど――いたのかもしれないな、マル経には。しかしわたしなどには、こうした概念は、概念それ自体としての魅力が意味をもつか、あるいは説明ツールに使えればよいので、松尾のいう搾取が経済の基盤原理であってもなくてもあまり関係ない。吉原は、理論はなにもかも説明しなくてはいけないという姿勢から、新古典派経済学に難癖をつける(つまり数理化する際に単純化しすぎで、現実を捉え切れていないとする)文化左翼を「逆理論フェチ」だと批判しているが、ここでは自分も罠にはまっているようにみえる。松尾の理論に戻れば、これは労働者が自分の生産物を自分で所有できるかどうかという個人所有権の問題と、消費レベルの格差を結びつけている点が興味深い。吉原は、消費の問題はそれほど考えてないのかもしれない。
素人っぽく大きく出れば、これは新古典派の合理行動主体自体の問題なのかも。合理的に行動する主体は、消費に狂ったりサラ金にはまったりしそうにない。このへんがわかりにくいところで、たとえば吉原によれば、「労働供給は利潤率に対して非弾力的である(利潤率を上回ることはない)」という前提があてはまらない場合をローマーが数理化している。この前提は、わたしに理解できた限りでは、たとえば時給1000円で8時間働いてる奴は、時給500円でもう1時間残業しろと言われてもやらない、ということだ(違ってたらごめんなさい)。吉原は、ここであえて残業するのは高いレベルの利潤率をすでに経験している人、つまりワーカホリックの資本家であるとして、それとレイジーな労働者を対比させている。これはわかりやすい例だが、実際には、いろんな事情で先ほどのような残業を受け入れる労働者はいそうに思える。まあ前提のつけかたというのは、アウトサイダーにはつねに躓きの石であるわけだが。
ちなみに吉原直毅はわたしの高校の同級生。彼は当時から筋金入りのマルクス主義者だった。といっても卒業以来ほとんど会ってないし、高校時代も親しくはなかった。思想傾向ではなくて、感性的に合わなかったということが、あとがきを読むとよくわかる。(尾崎豊だからなあ。)このあとがきでおもしろいのは、吉原にとってのマルクス主義の魅力が、まず第一に世界を説明する原理としての力と自由への指向、つまり普遍性にあることだ。現在、文化左翼の多くは、自分自身の出自にマイノリティとしての意識をもっているか、あるいは特定の「持たざる者」への共感からマルクス主義に近づく。そうしたありかたは、主体性を重視し、ときにセンチメンタリズムにすら傾く(平井玄とか)。吉原のマルクス主義には、たぶんそういった特定の現実への郷愁がいっさいない――たいへんに「学者的」――し、だからこそ彼はここまで数理経済学の普遍性をマルクスの普遍性に接続する作業に邁進できている。これは「頭が良すぎる」といって人に嫌われそうだが、わたし自身もべつに大事にしなければいけない記憶や現実的核がある人間ではないので、ちょっと共感したりもする。