Spencer and Late Victorian Individualism

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Men Versus the State: Herbert Spencer and Late Victorian Individualism (Oxford Historical Monographs)

Men Versus the State: Herbert Spencer and Late Victorian Individualism (Oxford Historical Monographs)

スペンサーの国家干渉批判・個人自由主義論を詳細に論じるもの。The Man versus the State (1884) で展開されている個人主義思想は、スペンサー個人にとどまらず、多くの同調者をもっていたのだという。十九世紀なかばの(ベンサム系の)ラディカルにとっては、旧い王制・貴族制のもとで作られた規制を撤廃することが、個々人の幸福を増大させることだった。しかし世紀後半になって、次々国家による規制の法律ができてくると、かつてのラディカルたちの一部はスペンサー的「個人主義者」になって、「現在リベラルと名のっている奴はじつは保守主義=規制主義者だ」と文句をつけるようになる。このへんはスペンサー自身が書いていることだが、テイラーはこの国家干渉を認めるか認めないかの分裂は、世紀前半のベンサム主義そのものに内在していたとみなしている。
とくに興味深いのは、社会を生物になぞらえる有機体論と、個人主義が両立するかしないかの議論を追う第四章。ハックスレーなどスペンサーの批判者は、だいたい両立しないと考えた。社会が有機体であるなら、それはある程度統合作用をもつはずで、個々の部分がばらばらに動けばいいというものではない、というわけだ。しかしテイラーは、スペンサーの有機体社会論は、分業のアナロジーに基づいているだけだという。個々の器官や細胞がそれぞれ違った役目をはたしているように、高度な社会では個々人は違った役割をはたす。それだけの話だ。だから社会が生物になぞらえられるからといって、ある個人が脳の役目をはたし、ある個人はたんに手足で、という古典的ボディ・ポリティックを想定する必要はないし、実際スペンサーはそんなことは語っていない。つまりある意味では、批判者たちのほうがスペンサー自身よりメタファーを真剣にうけとって、有機社会論の地平を追求しているのだともいえる。
著者はイングランド銀行の管理部門のアナリスト。もともとハイエク思想の起源を考えるつもりでスペンサー研究を始めたが、直接の影響関係はないという結論のようだ。たぶん古典的ケインジアンで、自由市場主義に批判的な立場であることが端々からわかる。そのぶん、スペンサーの思想のある部分を解放的に誤読しようとか、救い出そうとかいった方向性はない感じがするし、直接の影響関係がなくとも、なぜ個人主義思想がかくも強烈な波及力をもつか、という問いかけも、あまりないっぽい。