ナンシー講演会

ジャン=リュック・ナンシー講演会+湯浅博雄西谷修小林康夫鵜飼哲駒場。参加者たぶん260〜80名ほど。立ち見および床座り客100名以上。そりゃこの面子で学際交流ホールじゃ狭いって。開始時間ぴったりに着いたら同時通訳レシーバーが残り5個。危なかった。
講演「無‐無神論」は、まず哲学が神の死、否定に立つと言った上で、思考の外部、現に存在する事実世界との関係とは異なる関係へ開かれることを、「神」の名と結びつけるもの。「偉大な神秘家、偉大な霊的指導者、真の信者は、神の現実存在をけっして信じなかった」という文がとくに心に残る。
ディスカッションは、相手の語彙に沿って進める(湯浅)、対決姿勢(西谷)、直接関係ない話をする(小林)、美学的ないし文体論的コメント(鵜飼)と、芸風の違いが面白い。ナンシーの応答も力が入る。一度死にかけた人とは思えん。個人的な人間関係もあるのだろうが、デリダとのスタイルの違いを問う鵜飼さんが好感度高し。互いに、祈りや唄に似たパフォーマンスとしての哲学のことば、といった話をしていた。やりとり全体に、ナンシーのある種の楽天性、解放性がよく出ていたと思う。
湯浅さんとのやりとりで出てきた、「神の天地創造は生産ではない。神はべつに創造する必要はなかったはずで、世界創造は偶発性の問題だ」といった話がすてきだった。西谷さんは、「開かれ」の認識に神の死の経由が必要か、と聞いていて、最初は多神教的伝統のほうから、一神教否定神学だけにこだわることを批判しているのかと思ったが、むしろたとえばある種のムスリムのような真剣な信仰をただ退けてしまっていいのか、という問いだったのかもしれない。小林さんの「あなたのいう開かれは、仏陀のいう道と違わないじゃないか。言語を越えた思考だし」という誘い水に、瞬時に「ノン、ノン」と答えてたのがおかしかった。仏陀の微笑みは、言語を殺すでしょう、ここでわたしが微笑んで黙ってしまったら、小林さんも困るでしょう、など。最後にフロアの若い参加者から、「カトリックの信仰は若い頃に棄てたというが、結局キリスト教にこだわってるじゃないか、他の宗教伝統は考えないのか」という質問が出て、ナンシーは「無礼な質問をありがとうございます、まったくその通りだが、答えは出ていない」と答えていた。