万国のプレカリアート、「共謀」せよ!

非常勤先で特殊講義。大学院演習、人がこない。今年は新入生が少なかったらしいが、このまま受講者ゼロだったら給料はどうなるんだっけ。大きな声では言えないが、いわゆる中堅以下大学の文系大学院に人がこないことは、客観的な立場から見ればべつに悪いことではない。入ってきてもその先に行き場があるわけじゃないんだから。ただ、個々の大学の教員からみればそうもいかず、ある程度は人数を確保しないといけないと皆思っている。このあたりが構造的問題というやつですか。
インパクション (151)、特集「万国のプレカリアート、『共謀』せよ!」、precarious proletariat、不安定労働者については、『インパクション』と他のメディアにそれほど距離がない、というか、主流メディアがいやおうなしに『インパクション』に近い立場になってきつつある、ということだろう。この雑誌らしいのは、ベーシック・インカム、全市民への普遍給付が視野に入っていること。
記事のなかでは、海妻径子「フレキシブル・マスキュリニティというレギュラシオン」が、短いなかに委細をつくしてみごと。ネグリ=ハートというかアウトノミアの路線では、正規雇用から外れることはそれ自体資本に対する「ノー」の声であり、階級意識なのだが、いまの日本ではそうとはいえない。「ニート」層の階級意識は、会社に守られている正規雇用者と、彼らに代表される日本的階層経営への反発で作られているが、それは資本そのものへの「ノー」ではないのだ。非正規雇用が女性によって担われてきたというジェンダー・バイアスもある。実際、既婚女性の場合は、非正規雇用の立場に立つことは、家父長制にも資本制にもすんなりとりこまれてしまう。
「やりたい仕事」「やりがいのある仕事」だから低賃金やボランティアでもいい、という態度の(既婚)女性の労働形態の歪みは、座談会で白石嘉治が言っている、低賃金ケアワークの問題とも重なる。保育士とか郵便配達員、大学の非常勤講師などは、専門職でありながら低賃金を押しつけられ、しかし手を抜くこともできずに働いている。子どもに粗末なことはできないし、郵便物は棄てられないからだ。職業倫理が棄てられないがゆえに、社会は彼らを低賃金で使うことができる。この座談では、白石がこうして「やりがい」のもつ陥穽を指摘するところから出発するのに対して、杉田俊介はもう少し、仕事のやりがいを回復したいという希望をもって話し始めている。このずれが、話しているうちに縮まったり開いたりしていくのが読みどころ。
わたしは原則的には仕事にやりがいが必要だとは思っていないが、そんなことを大学教員が言ってもうさんくさい。これは家の夫婦喧嘩の定番のネタでもある。仕事がつまらない、しんどいとこぼす会社員に対して、妻は平然と、「嫌ならやめりゃいいじゃない、ぐちぐち言わないでさ」と言うのだが、そういうことは大学教員と写真家という、「好きなことやって飯食ってる」立場の夫婦が他人に言うことじゃないだろう、とわたしは怒ってしまうのだ。もっとも、わたしの立場はどちらかといえば「つまらないことでもそれなりにやりがいは見つけられる」みたいな、古典的労働者の考え方で、それはいまや通用しない――意思決定にかかわる「やりがいのある」仕事は一部の人間に独占され、つまらない仕事は徹底してつまらない仕事でしかない社会が、きてしまっているのかもしれない。