Humanism and Democratic Criticism

Humanism and Democratic Criticism

Humanism and Democratic Criticism

翻訳、一稿をほぼ終える。Mさん、お疲れさまでした。しかしやっぱりわれわれより、大橋洋一さんか中野真紀子さんがやったほうがよかったような……。これはサイードの遺著。表題の「ヒューマニズム」はここでは「人文学」のほう。コロンビアでの連続講演をもとに、現代世界における人文学、古典文献学的な読みの意義を語るもの。アウエルバッハ『ミメーシス』の英訳再版に寄せた序文も収められている。テクストに向かい合い、書き手の経験をできる限り書き手に沿ったかたちで想像し、そのために歴史と形式を必死に学ぶこと。人文学批評の営為の意義は、いまだからこそ唱えられなければいけない。最終章では、インターネット世界における批判的知識人のありかたが、十八世紀のスウィフトのパンフレットの書き方と比較されて――ここがサイードらしい――論じられている。
わたしはサイードの良い読者ではない。もちろん文学理論の授業では『オリエンタリズム』とステレオタイプ論をとりあげるし、パレスチナについては彼から多くを学んだ。院生の頃には『世界、テクスト、批評家』のいくつかの章を読んで positionality というものを意識するようになった。ただ、どの本も読み返したことはあまりないし、どの問題にせよ、サイードからでなければ学べなかったことなのかといったら、全然そうじゃない。彼が与えるのは、個別の情報とかアイデアというよりは、そうしたアイデアを基盤にしたパフォーマンス――これみよがしのウケ狙いではなく、あくまで古典的文人のそれ――だからだ。(手元にあるサイードの著書を今回いくつか再読したが、書き込みとか、ページの端を折った跡がほとんどない。彼のエッセイは、知識を拾うためにではなく、全体として読まれ感じられるように書かれているということだと思う。)
あるいはそれが彼のいう「知識人」の様態なのかもしれない。サイードはこの本でも一貫して、アメリカの学問業界の専門分化を批判している。専門家が、素人の介入を遮断するために語るのだとすれば、知識人はあくまで市民として、ある意味当然誰もがわかっている立場から語る。そうした立場から声を届かせることができるのが真の知識人なのだし、それはなろうとしてなれるものでもない。"...humanists wituout an exfoliating, elaborating, demystifying general humaneness are, as the phrase has it, sounding brass and tinkling cymbals." しかしこの exfoliating, elaborating humaneness って、どう訳したらいいものやら。いま見たら「内側からめくれてくる、精巧にものを作るための、脱神話化をおこなうための一般的人情」と訳してあるが、もう少しましにならないか。
追記 それより先にタイトルを考えなければいけなかった。『人文学と民主的批評』というのもどうもぱっとしない。誰かなんか考えてほしいです。