椅子と身体

お茶の水で2月にやった文献討論会のウェブ用報告とりまとめ、犬のカフェデビュー@高円寺。TV、FC東京3‐1磐田、こんな試合するんなら味スタいっときゃよかった。

椅子と身体―ヨーロッパにおける「坐」の様式

椅子と身体―ヨーロッパにおける「坐」の様式

ロセッティとラファエル前派から出発して、中世から現代までの身体・空間感覚を探る野心的大作。ほぼ編年的に、身体感覚の変遷をたどる前半1〜5章と、ベンヤミンベケットなど、もっと独立性の高い論文を並べた後半からできている。方法論の意図的な折衷性がすばらしい。出発点がラファエル前派にある以上、文学史と美術史が交錯するのは当然だが、それに現象学文化人類学、舞踏論、いわゆる現代思想、技術史が乱脈なまでに導入されていく。たとえば現象学的アプローチに軸を絞ったほうが、もっと「統一的」になったはずだが、それではまったく別の本になってしまっただろう。最後の二章は、ギリシアの坐具バシと、輪踊りを論じて解放的に美しい。アプローチとしても完全に人類学といってよく、家からほとんど動かないわたしなどには、嫉妬と羨望をかきたてる文章だ。
前半のベースになっているのは、中世のチェストが象徴するような共同的な坐、同じ空間を複数の人間が共有している世界から、個人個人に椅子が割り振られ、それぞれの居場所が指定されるような近代世界への移行の物語。とくにクレチアン・ド・トロワから『ディド・ペルスヴァル』、マロリーをへてロセッティにいたる第2章は、騎士道物語におけるこの移行を論じて全体の要だと思う。公共空間と私的空間が分かれないチェスト的な場に、クレチアンの頃(12世紀)寝台が入ってくることで、空間は分割され、見る身体と見られる身体からなる劇場的な空間把握がもたらされる。そして13世紀の『聖杯の探索』になると、聖杯探求者以外が座れない特別の座席 un propre siege が現れる。椅子は siege、つまり砦であり、個別化と権威の発生場所にもなる。アーサー王伝説とは、円卓という共同的な坐の様式と、椅子という私的にして公的権威を発生させる個別化の様式との、せめぎあいの空間なわけだ。
ロセッティの労働者階級出身のモデルで後の妻、エリザベス・シダルを論じた第4章は、対象への深い愛が感じられるもの。椅子に座った彼女のデッサンは、その姿のある種の不自由さ、椅子に縛りつけられているかのごとき固さが強い印象を残す。リチャード・セネットの「親密さの専制」論がここで引かれて、親密性の空間がかならずしも自由とはいえないものだという視点から画家とモデルの関係が論じられている。
山口さん、鯨津朝子インスタレーションはご存知ですか。彼女は中央に空白をおいてそこから描線が四方に伸びていく作品をたくさん描いているが、その中心には最初期はいつも椅子がおかれていた。なんで椅子なんだろう、といままで不思議に思っていたが、この本を読んで長年の謎が解けたような気もする。