(見えない)欲望へ向けて

大塚英文学会@茗荷谷、参加者20名ほど。外山健二「なぜ、スレイドは医者か――『世界の真上で』における新しいもの」。タイトル通り。アメリカの医者が南米で無力化するという医療人類学的枠組み。南米にLSDというむしろ先進科学的な薬が持ち込まれているところがこの作品の面白いところか。
シンポジウム「村山敏勝『(見えない)欲望へ向けて――クィア批評との対話』をめぐって」司会・吉原ゆかり、報告・三浦玲一、鈴木英明。ここまで丁寧に読んでいただき恐縮です。吉原さんは、前半の解題と、クィア批評が批評である以上保守化する部分がある、という点について。これは本に対する国文や社会学の方からの、やや制度的に自閉しているのではないか、という批判とつながるものだろう。
三浦さんは、バイオポリティクスに対するベン・マイケルズの批判をうけた話。マイケルズの例によって嫌味な批判では、バイオポリティクスというのはアイデンティティを個人化し、その個人の自己実現には他人が口をはさめないという状況のことだ。わたしはもっと集合的なものとしてアイデンティティ・ポリティクスを考えている、つまり、とりあえず同じアイデンティティを「もっていることにする」複数の人間の存在によって共同体が作られるところにアイデンティティがあると思っているわけだが、もちろんそれと、最初から個人がアイデンティティをもっているという意識を、すっぱり分けられるものではない。あと、作品論的章がほとんどどれも同じ終わり方をしている――決定的な真理に向かうのではなく、「こうも読める」という営みを続けるべきだ、といって終わる――という指摘に、なるほどと思う。これはただのポーズで、本論のところではあんまりそういうレトリックになってないという話もある。アイデンティティ・ポリティクスの側で書いているようだが、結局最後で扱っているベルサーニがいちばん好きなんじゃないか、とも言われた。これも、そうかもしれない。
鈴木さんは、快楽と享楽のあいだの mobility について。わたしはたいがいどこにでもなんらかの二重性を見いだして書いているし、ジジェクを扱う第六章で――正直にいうとこの本ではこの章がいちばんできが悪いというか、図式化があからさまで恥ずかしい章なのだが――快楽 pleasure と享楽 jouissance とのあいだの往復が重要であり、ジジェクなどは享楽・現実界を固定化しすぎだ、と言っている。しかし全体には、享楽と快楽を分離して、前者についてあまり語らない、というスタンスでやっているようにみえる、という。これはすごく重要な指摘で、たしかにわたしには、非共同体的・個体的な享楽、さらにはジジェクが言うような革命的切断への忌避感みたいなものがあると思う。鈴木さんはさらに話を続けてコプチェクを引きつつ、享楽はそうした切断とか決断主義だけに属するのではなく、小さな享楽、日常のなかの享楽もあるのではないか、それを村山は共同体的快楽と区別していないのではないか、と言っていた。たしかに。これについてはどこかで別なかたちで取り組んでみたい。
庄やで飲み。わたしは二十年後くらいに「国家の品格」とか言い出し始めるんじゃないか、と言われる。まあ、リチャード・ローティを嫌いとは言い切れないのはたしかだ。

(見えない)欲望へ向けて―クィア批評との対話

(見えない)欲望へ向けて―クィア批評との対話

The Shape of the Signifier: 1967 to the End of History

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<女>なんていないと想像してごらん

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