文学と絵画――唯美主義とは何か

文学と絵画―唯美主義とは何か (英宝社ブックレット)

文学と絵画―唯美主義とは何か (英宝社ブックレット)

ご恵贈ありがとうございます。2003年秋のヴィクトリア朝文化研究学会でのシンポをベースにしたもの。後期ヴィクトリア朝絵画と美術批評が多面的に扱われていて、現在の研究水準を見通せる本だと思う。
いちばん勉強になるのは(こちらが素人だからだが)、荒川論文。歴史や神話を題材とした大作を中心とする大陸のハイ・アートの概念は、イギリスではなかなか定着しなかった。肖像画や、フリスのような同時代の情景を描く物語絵画のほうが、需要があったのだ。これに対して1860年代後半から、フレデリック・レイトン、エドワード・ジョン・ポインターといった、大陸で芸術教育を受けた画家たちが「唯美主義 aestheticism」という名で、ハイ・アート概念を導入しようとする。レイトンは、ラスキンに反論して「芸術はあくまで aesthetic(荒川訳では「感性的」)であって、道徳的な真実は第一目的ではない」と述べている。当然のように彼は、ラスキンが反対したヌード絵画にも積極的だった。「唯美主義」という語が、ワイルドよりずっと以前から美術批評の文脈で使われていたことがわかる。ペイター『想像の肖像画』を中心に、エクフラーシス――絵画や彫刻を言語で記述する表現――の意味を検証した松村論文も面白い。
加藤論文は、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの描く無表情な美女に、絶対的な他者、言語で把握できない世界を見いだしている。ロセッティの装飾性に「表面のエネルギー」、つまりコード化されない力を見いだす Jerome McGann の議論をうけて、綿密に検証したものだ。ラファエル前派の描く女は、ブラム・ダイクストラ、グリセルダ・ポロックの路線で、あくまで男の欲望の投影であると捉えられることが多いが、それに反論しているわけだ。加藤さんのこの路線の仕事にはこれまでずっと、敬服を払いつつ、どこか引っかかっているのだが、たぶん、この議論そのものが女性を神秘化してはいないか、というのが気になるのだろう。男性の視線が女性を作り上げるのではない、という点では、加藤さんの議論はひじょうに説得力があるのだが、そうしたコード化されないものへの欲望もまた男性的であるわけで、そこを言わないとポロックのようなフェミニスト批評への反論としては完成しないのでは。
もっとも、わたし個人がもっと関心があって続きが読みたいと思っているのは、ここでの議論と、マイケル・フリードの没入概念との関連だ。フリードでは、絵画のなかの「没入している人物」は、なにか作業をしていることが多いが、ロセッティの女たちはそうでもない。彼女たちは、見られることは意識していないように見えるが、そういう女を描くロセッティは、絵の外の演出家として、彼女たちを見せる側にまわっているといった話になってしまうのか、それとももっとポジティヴな考えかたがあるのか。没入とジェンダーの絡みについては、たぶん美術史でいろいろやられているんだろうが、文学との関連でもなにか言えそうな気がする。
Absorption and Theatricality: Painting and Beholder in the Age of Diderot

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