ミッキーマウスのプロレタリア宣言

ミッキーマウスのプロレタリア宣言

ミッキーマウスのプロレタリア宣言

1972年に渡辺克己が撮った、新宿二丁目のヌードスタジオ前の写真がある。その右手に映っているクリーニング屋が、平井玄の実家(正確にいうと実家の取り壊し中の仮店舗)なのだという。七十年代初頭の、まだ本格的にゲイ・タウンになっていなかった頃の二丁目と、その後平井がかかわることになる校正業のフリーター世界でうごめく「ネズミたち」、さらには山谷のおっさんたちの、ぐじゅぐじゅとした世界が、外れ者のプライドをもって語られる。
ただ、こうしたくだりはすごくいいのだが、もしこの本が『十三歳のハローワーク』にまじめに感動するような「よい子たち」に届けられようとしているなら――そうでないという可能性もあるが、だったらこのタイトルはなんだ――構成がまちがっている。新宿風俗街に響くあさま山荘のラジオニュースは、冒頭でなく後半におかれるべきだ。若い(しばしば自分ではそうと意識しない)ネズミたちは、この冒頭をたんに他人事としてうけとるだろうから。
そういえば「授業中はともかく、昼休みに不協和音のCDをかけないでください、不愉快です」という苦情を学生からうけたことがある。去年の文学理論の授業は3限だったので、早めに行ってビデオの頭出しなどをする習慣で、たいがい授業前になにか音か映像を流していたのだ。文句を言われた「不協和音」は、他ならぬアルバート・アイラー『ゴースト』。正直、「ざまあみろ」としか思わなかったが、教員としてはあれこれ考えるところ。文句を言ってきた学生は、路上演奏も不快に思うんだろうか。それとも「不協和音」だからいけないのか。どっちにしても無理やり聞かせられるのが不快だと、それに文句をつけるのが当然の権利だと考える奴に、無理やりなにかを聞かせるべきなのか。それとも「授業」という限られた空間を使えば、無理やりではないことになるのか、などとミドルクラス教員は思案するわけだ。