女たちの絆

書類処理、東町のレトロ小物屋 Queen's Hotel で、紐を引くともんちっち風に手を叩く子豚らしき紙人形を買う。パネルの原稿をほぼ終える。

女たちの絆

女たちの絆

名著。コーネルの詩人としての感性は、理論的な法哲学の本でも感じとれるが、なかば回想録であるこの本では全開にされている。一流の政治哲学者は、しばしばむしろ文学者としての能力によって一流であることがよくわかる。(訳者の一人岡野八代もそうした人だと思う。そう言われて岡野さん自身が喜ぶかどうかはわからないが。)
両端の章では、祖母と母、パラグアイからの養子との関係が美しく、尊厳(コーネルのキータームだ)をもって語られている。夫亡きあと印刷会社の社長として、その世代では珍しい家長的人生を送った祖母は、エヴァ・ペロンの熱狂的ファンだったそうだ。しかし彼女は娘に対しては高圧的で(孫娘に対してはそうでなかった)、コーネルの母はひじょうに因習的で、その時代その時代のジェンダー規範からはみ出ることのない人に育った。南米から養子をとることにもずいぶん反対したそうだが、結局娘がきたあと、母とのつながりは深くなる。アリシア・オストライカーの詩などを夜吟じる、女三代での「儀式」のシーンも、たんたんと重みをこめて書かれている。
理論的には、マリ・カルディナル『血と言葉――被精神分析者の手記』から始まる第二章が白眉。コーネルの他の本を知っている人にも知らない人にも、これが彼女のラカンに対するスタンスをもっともコンパクトに伝えるものじゃないかと思う。コーネルはここでも母と娘の関係を語っているのだが、もっとも印象的なのは、娘にとっては、母が家庭とはべつになんらかの欲望をもっていると認識したときに、象徴界が形成されるという議論だ。娘は、いや娘でなくても子どもは、自分が母親に圧倒的な享楽を与えていることを知っている。自分が「他者の享楽の対象」となっているこの状態から逃れること、「他者の享楽はわたしたちの内部にあるのであって、実際にわたしたちを抹消することさえできる全能の誰かの内にあるのではないことを知る地点に患者が到達すること」(p.90)が、精神分析の目標になる。親離れとは、母親が娘以外に関心をもつこと、仕事や恋人や出かけていく場所をもつことを認識することだ。
想像界対象a は、しばしば病的な妄執・幻想が降り立つ地点であるわけだが、コーネルの姿勢はずっと前向き。去勢は、たんに絶対的な象徴界を受け入れ、服従することではない。親には親のイマジナリーな領域があるのを理解することが、親と自分とだけからなるおそろしい想像界との決別なのだから。象徴界は一つではない。象徴界は、他人のイマジナリーな領域を承認することで成立するからだ。
第三章では、スピヴァクポストコロニアル理性批判』の終盤での、サティと帝国主義の議論が扱われている。ここでは、声なき人の声からなる歴史に耳を傾けることが、自分の母や祖母との関係を語りなおすことと自然につながっている。