お茶COE英語圏年次大会

会議。会議を一つさぼって茗荷谷へ。
お茶の水女子大学21世紀COEプログラム「ジェンダー研究のフロンティア」プロジェクトD1「理論構築と文化表象・英語圏」第3回年次大会「精神分析と表象研究」(長いなあ)。参加者のべ90人ほど。第一部文献討論会、レオ・ベルサーニフロイト的身体―精神分析と美学』、司会と第三章の報告。他の発表者もみんなキープ力に優れた人たちなので、司会の負担はあまりないが、それでもものがものだけに緊張する。喋っているうちに、自分にとってのベルサーニの可能性は、彼のいうマゾヒズムが、たんに受動的なものではないところにあるのだと再認する。マゾヒスティックな欲動は、むしろ積極的に世界――それは主体に対して確固たる外部として存在しているのではなく、今日中山徹氏が強調していたように、主体そのものの中に折りたたまれているのだが――に向かって拡大し、暴力を振るう契機でもあるのだ。
竹村和子さんから、この暴力・美学論を現実の政治的場面について使うという可能性はいったいあるのだろうか、という問いかけがくる。ベルサーニは、われわれはアートにおいて暴力を振るえ、それを享楽しうるから、現実においては暴力を振るわなくてすむ、と言っているようにみえるところがある。しかし現実世界は暴力に満ちているし、それらの多くは現に美学化されている。ベルサーニの議論は、ファシズムや嗜虐性の性質を解明する役にはたっても、それを越えたものを示唆しえないのではないか、といった話になる。暴力性の彼方を考えるには、マゾヒズム論より、第三章や後のカラヴァッジオ論で展開される「反復・社交性」の議論を見たほうがいいのだと思う。竹村さん自身の考えは こちら で聴けるのかも。
いつものように自分の出番の後は人の研究発表に集中することができない。ごめんなさい。懇親会。マゾヒズムが幼年期の人間の無力にもとづくというベルサーニの議論は、とくに男性同性愛の問題と結びつけられてはいないことに、話していて気づく。ワイン@ナマスカ。今回限りでこのプロジェクトの実務担当を退くお茶大院のYさんから、涙ながらの挨拶。お疲れさまでした。