melancholy and superego

The Freudian Body: Psychoanalysis and Art

The Freudian Body: Psychoanalysis and Art

読み返すたびに理解できる箇所が増えていくような気がするのは、自分にとってめでたい。いま読むと、pp.96-97(邦訳142-43頁)あたりは、ジュディス・バトラーヘテロセクシュアル・メランコリー論とほとんど同じことを言っている感じがする。「喪われた愛の対象との同一化は、理想化である。同一化は、対象を非現実化し、それが望ましい=欲望しうるものであると同時に、手に入れられないものであることも、記憶に刻むのである。対象への欲望の幻想は、自己こそがすでに喪われた欲望すべき対象であるという幻想において反復されるのである」(96)。バトラーの場合、このあらかじめ喪われた対象とは、同性であり、ヘテロセクシュアルは、自分と同じ性に同一化し、それを自らのなかにとりこむことで、自分と同じ性を欲望の対象としては喪ってしまう。
ただ、やっぱり著者のジェンダーによる違いで、ベルサーニの場合、この「喪われた対象」のとりこみは、はっきりと超自我の形成であると述べられている。つまり男の子が「父」を自らの中にとりこむというシナリオだ。レズビアン女性がこういう風に語るとは思えない。The Psychic Life of Power: Theories in Subjection の議論は、超自我への屈服はそれ自体マゾヒスト的快楽である、というベルサーニ的方向で組み立てられてるのはまちがいないのだが、その「超自我」は「父」というジェンダーを与えられてはいなかった、ような気がする。……男であれ女であれ、同性のモデルが「超自我」であるという図式なのだろうか。たぶん、たんに超自我を男性として語ることをバトラーが慎重に避けている、というだけなのだろう。逆にベルサーニは、男性同性愛の欲望は、権力をもった「父」への欲望と不可分である、とあっさり認めるだろうと思う。