The Body Economic

The Body Economic: Life, Death, And Sensation In Political Economy And The Victorian Novel

The Body Economic: Life, Death, And Sensation In Political Economy And The Victorian Novel

単著としては十年ぶり、グリーンブラットとの共著から数えて五年ぶり。いずれにせよ、わたしにとってはキャサリンギャラガーの新著が出るというのは「事件」だ。第四章の『われらが共通の友人』論は、1989年に Zone に載ったものの拡大版、もとのものは何度となく読んできて、まだちゃんと自分の仕事に生かせていない。以前『千と千尋の神隠し』論を書いたときには少し「恩返し」ができたような気がしたけれど。今回オリジナルに比べて、心なしかエコ・ユートピア的というか宗教的なトーンが薄れ、衛生改革者チャドウィックが、文学に「働き手にエネルギーを与えるという生産的な」役割を見出しているところから、労働としての文学生産の意味が問われる部分が大幅に書き足されている。
全体は、マルサスおよび政治経済学から見たヴィクトリア朝小説論。bioeconomics、つまり生死や身体、食糧生産といった問題を経済学の語彙で語る路線と、ギャラガーいうところの somaeconomics、経済学の基盤に個々の主体の幸福/不幸、快/不快、安寧/疲弊を位置づける路線とが、例によって細かなレトリック分析と大きな思想史的把握とを往復しながら検証されている。
第一章では、コールリッジ、サウジーといったロマン派が、マルサスに近いところにいながら彼に反発した経緯が描かれている。第二章――The Making of the Modern Body (Representations Books)マルサス論がベースになっている――でも強調されているように、マルサスは、性欲を消去しえない文化の根本として位置づけたし、したがって貧民の感情生活が国家に大きな意味をもっていると述べた。その意味で彼はきわめてラディカルな人民主義者としての顔をもっているが、同時に、個々の国民の健康は国家の健康につながらない――個々人が健康だと人口が増えぎて国家が衰弱する――と論じたことで、社会のために個々人の(性的・家庭的)幸福を犠牲にしなければならない、という非情な点で反発をうけることにもなった。たとえばサウジーは、マルサスは性を動物的なものに還元してしまい、家族愛などを考慮できていないと噛み付いている。いっぽうシェリーは、マルサスが人口調節のために婚期を遅らすことを提案したのに反発して、彼が性を一切無視しているとみなして批判している。マルサスにどう応対したかで、ロマン派詩人たちの位置づけも可能なわけだ。後年、保守化してからのコールリッジが、Friend で、経済システム(ナポレオン戦争直後の話だから、国債乱発によって英国経済が成立している)を、あたかもひとつの有機体としてみている、という指摘もおもしろい。また、もっともまじめに政治経済学にとりくんだロマン派作家ド・クインシーが、労働価値説に反発して、使用価値は消費者が作りだす、と論じているというのも瞠目。文学者は、自分たちの仕事を生産的な「労苦」と語るレトリックと、芸術品は通常の労働価値から離れた、いわば純粋に使用価値と交換価値を一致させた商品であると考える志向とのあいだで揺れていた(しいまでも揺れている)のだと思う。
第二章は、「生産的労働」と「非生産的労働」の区別の不可思議さをめぐっている。経済は最大多数の最大幸福をめざすはずなのに、そのためには多くの人がとりあえず享楽せずに労働し、生産しなければならないという大問題をとりあげている。J・R・マカロックの解決は、「これから享楽がやってくる」という期待は、現時点での享楽と同じ働きをする、というものだった。労働は辛い。そしてわれわれが日々享楽している商品や娯楽には、他者の労働が堆積している。幸福に基礎をおいて社会を語るベンサム主義者は、つねにこのパラドックスにさらされながら思考していたわけだ。
この項続く。