バトラー@茗荷谷

来日中のジュディス・バトラーのセッション。参加者は、竹村和子ゼミと、お茶COEプロジェクトDのメンバー。「批判」という行為が、基本的に規範から外れた空間において生成する(と同時に主体そのものは規範の空間において生成する)ことをめぐり、そこからイラク戦争批判などにつながる。お茶の学部生、院生たちが、まってましたとばかりに用意した質問を浴びせ、それにバトラーもきちんと答える。いい人ですよ。わたしは、ラプランシュが語るような「現実の他者」を語るやりかたと、ベルサーニのような、すべてを主体のなかで生起する(たとえば外部からの暴力を超自我の内的機能として語るような)メカニズムを対比して、後者には苛々しないのか、といったことを尋ねたが、答えは、「現実の他者」はあくまで心的なものにとりこまれて主体の一部となる(だからおそらくわたしのいう二項対立は成立しない)というものだった。なるほど。竹村和子さんは、最近ベルサーニを通じてナルシシズム暴力について考えているようで、そこからの対話も面白かった。全体に、精神分析の使い方は抑制されていて、マゾヒズムや自己への道徳的サディズムに関しては、慎重なスタンス。
最近のバトラーは、わりに常識的な政治スタンスを崩さずに語っている。NY Times などにも書く公的知識人としての自分の役割を、すごく意識して語っているのだと思う。今日も、「intelligibility を求めることによって、マイノリティはむしろ暴力にさらされるのではないか」という質問に、「わたしは、知識人やソーシャルワーカーが、マイノリティに自分を公的な場にさらすよう強要することには断固反対だ」と言い切っていた。いつ頃そういう自分の立場を意識するようになったか、聞きたかったような気も。
クライマックス(わたしにとって)は、「Precarious Life では、アメリカの(親イスラエル的な)ユダヤ人を批判しているのですか」というフロアからの質問に対する答え。"You must be wrong, but this is a wonderful, interesting way to be wrong." と、すごい嬉しそうな顔で言う。「誤読の女王」ジュディス・バトラーの面目躍如です。

Precarious Life: The Power of Mourning and Violence

Precarious Life: The Power of Mourning and Violence