without the "you", my own story becomes impossible

肩も背中も痛い。寝転がるとよけい痛い。

Giving an Account of Oneself

Giving an Account of Oneself

「わたし」について語ることは、つねに他者との関係を語ることだ。それ以外に「わたし」の物語はないのだから。ニーチェヘーゲルレヴィナス、ラプランシュ、フーコーアドルノ、それにアドリアーナ・カヴァレッロを呼び出して、主体がいかに構成されるか、そこから導き出される道徳、責任とはどのようなものかを問う書物。レヴィナスを正面からとりあげて、「迫害されたものは迫害したものに(仕返しをしない)責任をもつ」という議論を支持しているところが、バトラーとしては新機軸か。The Psychic Life of Power: Theories in Subjection などに近い禅問答系の本で、終始同じことを繰り返して言っているのか、思想家ごとの微妙な違いに大きな意味があるのか、ざっと読んだだけではむろんよくわからない。
三部に分かれており、第一部は、ヘーゲルの主体と他者の関係を、空白のなかで二者関係だけで成立するものとしてではなく、つねに「社会的」関係のなかで生起するものとして捉えなおす、という議論。これはバトラーのいつもの論で、主体はフーコーのいうごとく、つねに「真理」との関係においてのみ存在し、どのような存在がそもそも主体として語りかけられ、自分を語ることができるかは、主体が存在する前にある程度言説体制(という言い方はこの本では使われていないが)によって決定されている。Undoing Gender の第一章に近い感じ。第二部は、カフカ「判決」「父の気がかり」を持ち出し、おもにラプランシュに沿っている。子どもは、たとえば親という他者を通じて、理解できない大人の世界に直面する。これこそがセクシュアリティの基盤であり、こうして子ども時代に経験する不可解さ、恐怖は、主体が大人になったあともずっとつきまとい、主体を受動的な、つまり他者との関係においてしかありえない存在にする。ラプランシュは、レヴィナスはここがわかっていないために、大人の主体を十分脱中心化していない、と言っているらしい(p.76)。ここで挙がっている「責任と応答」というラプランシュの論文、フランス語で読むしかないのか。
第三部は最初に書いたように、『存在するのとは別のしかたで』のレヴィナスの「顔」と「責任」の議論で始まる。で、この後フーコーの晩年の講演をいくつかとりあげて、自己と真理の関係の話になるのだが、これが前半とどうつながってるのかが、わたしにはよくわからない。正直いうと、それを理解するためにもっと丁寧に読もうという気はおきません。悪しからず。