ポストモダン・パロディ

会議、英語の期末試験のとりまとめ。

ポストモダン・バーセルミ―「小説」というものの魔法について

ポストモダン・バーセルミ―「小説」というものの魔法について

ご恵贈ありがとうございました。タイトル通り、バーセルミを論じつつ、圧倒的な理論的博識で魅せる「ポストモダン文学論から見た現代思想総まくり」。目次を見れば一目瞭然、人文系の現代思想でとりあげられてきたビッグ・ネームのほとんど全てが言及されているといってよい。ことに、ソンタグのキャンプ論からバトラーのパフォーマティヴィティ論の系譜を、ウォホールやエクリチュール・フェミニンにつないで、短編「説明」をジェンダー規範の擾乱と読む第五章は、範例的な議論として参照されるものだと思う。「自然」を疑い、「意味」を疑うポストモダン文学の営為が、いかに現代思想と連結されるかを矢継ぎ早に思考実験してみせた大著だ。
ただやり過ぎの感もあって、どうかすると二頁のあいだに柄谷とドゥルーズラカンが並んでいる上に、結局彼らがみんな同じことを言っている、のかどうか、読んでもよくわからなかったり。これは混乱する。
三浦さんとはよく知った仲なので、あえてちょっと批判的なことを書かせていただくと、こうした事態はたんに部分的な不親切のせいではなくて、この本の根本に関わっていると思う。要するに、この本の基本ライン――バーセルミポストモダン・パロディは、あらゆる「意味」を解体する――は、あまりにも抽象的にすぎるのだと思う。とくにネグリ&ハートに多くのページを割いている第六章では、その感が深い。この章の前半はフロイト批判で、『パラダイス』が詳細に読解されて、この作品がジェンダーアイデンティティや家族アイデンティティを解体していることが示される。そして議論はこの後、ネーションを作るのは国民アイデンティティなのだから、フロイトの図式の批判は国家の自然性の批判にもなる、と続く。しかし、これを文学研究としてやるなら、もうちょっとわかりやすく国家概念が無化されている例を作中からあげないと、飛躍が大きすぎるんじゃないだろうか。たしかに『パラダイス』にはグローバル化を描いた部分があるが、ジェンダー・「アイデンティティ」の批判が即国家「アイデンティティ」の批判でもある、といっているように見えかねない議論の流れは、あまりに抽象的な気がする。
最初の二章でわかるように、この本には深くフォーマリスト的な志向がある。バーセルミは、言語的「無意味」を積極的に作り出しているのだ、という議論。ただし、これはわたし自身の批評的立場の問題でもあるのだが、「無意味」は意味からしか作られないし、ジェンダー規範の擾乱はジェンダー規範からしか作られない。そしてバーセルミのテクストは、三浦さん自身が詳細に論じているように、アメリカ映画やお伽話、精神分析といった、意味の豊穣なガジェットを駆使している。形式的な美学の議論としては、そこにあるのは「あらゆる意味が解体される」という抽象命題かもしれないが、そこに政治的な意味を読み解こうとするなら、やはり具体的な個々の局面をとりあげざるを得ないのではないか。
芸術上の革新、言語の破壊が即政治的にラディカルであるという議論は、トロツキズムの伝統でもあるし、クリステヴァなりエクリチュール・フェミニンもそうした立場にたった。しかし現代のアイデンティティ政治はそうした語りかたはしないし、ジュディス・バトラーの議論はそのアイデンティティ政治の文脈のなかにある。たとえばクィアなるものは、あらゆる意味を解体したいのではなく、ある特定の意味を解体したいのであって、あらゆる意味の解体を目指すとかそれが喜ばしいというのは、昨今あまり政治的な姿勢とはみなされない。そうした風潮を、より原理的・美学的な立場から批判するというなら、わかる。しかしこの本はそうではなくて、アイデンティティ政治やネグリ&ハートの「帝国」論を、ポストモダン美学にすべて連結させるというかたちをとっている。なにもそんな持って行きかた、しなくてもいいんじゃないかと思ってしまうのだ。