卒論前夜

英語、会議、期末試験作り。来年度ゼミのオリエンテーション、さらっとやる。あまり盛り上げて客を呼ぼうという気分が出ない。わたしのゼミでうまくいくかどうかは、一般的な成績の良し悪しとはあまり関係ないし。
明日は卒論提出日。わたしの職場ではデッドラインは厳しい。一秒でも遅れたら留年、というのが基本的な考えだ。もちろん、ちょっと遅れて良い内容のものと、時間通りに出てきた屑とどっちがいいか、といった議論は毎年のようにあるのだが、内容で留年させるというのは、注が一つもないとか完全丸写しとかでない限り難しい。結局、提出時刻と形式・分量で判断せざるを得ないし、そういうほとんど無意味にすら思える厳格な経験には、教育効果という意味でまったく意味がないわけでもないか、と思う。
いままでいちばん嫌だったのは、本人でなく友人が出してきて間に合わなかったときだ。たしか祖母が緊急入院かなにかで家を出るのが遅れ、提出時刻までにはキャンパスに着けそうになかったというケース。彼女は駅で友人に電話で相談したのだろう。その友人は、「(たしか)新宿のインターネット・カフェで、大学のコンピューター・ルームにファイルを送ればいいじゃない。わたしがプリントアウトして表紙をつけて提出するよ、そしたら間に合うよ!」と言ったのだ。そしてお察しのように、間に合わなかった。余計なことを言って友人を留年させたかたちになった学生は(もちろん、自分で提出しに来ていて間に合ったかどうかはわからない。微妙なタイミングだった)その場で泣き出し、その年教務委員長で規則を守る立場だったわたしは、泣いている学生に事情聴取をやったのだった。
こうした形式的なリジッドさは、くだらないといえばくだらない。ただ、そうしてくだらないレベルで人生が左右されることは現実にしょっちゅうあるし、大学はもっと自由で質を重視する空間であるというのは、たんに幻想にすぎない。