your real self pervades the life of other creatures

The Drama of Love & Death: A Study of Human Evolution & Transfiguration

The Drama of Love & Death: A Study of Human Evolution & Transfiguration

初版 George Allen 1912。愛の起源を細胞分裂単細胞生物うしの結合に求める第一章がまず面白い。ことにこうした結合は、栄養が足りないときに起こるのだから、飢えと愛、食と愛とは根源的に重なる。細胞が他の細胞から栄養を得ることが愛なのだ。こうした細胞の愛は当然、異なるものどうしではなく、二つの同質なるもののあいだの結びつきでもある。高等生物になれば、そこに性差が現れ、ジェンダーが現れるのだとはいえ。(カーペンターは、男女の性質の違い自体を疑うことはない。男はより活動的で女はより受動的だとかいった差異を、彼は信じている。ただもっと根源的なレベルでは、愛は細胞どうしのような同質なものの関係なのだ。)
染色体の理論はおもにオーギュスト・フォレル『性の問題』(英訳1908)から引かれている。生物学の議論がこうして「愛」の思想に利用されるというのは他にもいろいろあるはず。ロレンス研究者の方、いかがでしょう?
死を扱う後半は、しだいに神秘主義がかっていく。このときカーペンターは六八歳。まだ後実際に死ぬまでに十七年あるとはいえ、自分の死を意識に入れて語っているのだろう。The Art of Dying と題された第五章では、「良き死にかた」が模索される。「真の自己は、他の生物の生に浸透しており、いわゆる自分自身のものではない他の身体のあいだを動いているのだということにすでに気づいていれば、自分の身体が存続しようと消滅しようと、さほどのことはないのは明らかだ」(p.81)。美しい一文だが、頁をめくってゆくとさらに、「身体」に属さない「生命」には微細な実質があり、死に際してそれが身体を離れてゆくのだ――という、物理的神秘主義というか、生気論の再燃みたいな話になってくる。われわれに生命が宿っている以上、細胞分裂の出発点となるたった一つの細胞にもすでに生命はあったはずだ、といった議論の展開は、細胞概念が生まれた頃の生気論そのもの。この具体的にして目に見えない「生命」が必要になるのも、カーペンターが個人の生を維持したいと思っているからだ。死後、復活や輪廻があるとして、そのときにも個は保ちたい――というと、二週間前にフェルナンド・ヴィダルの論文で触れた、キリスト教の復活概念における身体性の存続、みたいな話によく似てくる。終始キリスト教の「肉の抑圧」を否定し、異教的身体観の復活を唱えた人としては皮肉――というより、近代のキリスト教が、中世のキリスト教思想のもっていた身体意識を失ってしまったというほうが正しいんだろう。
ジョージ・マクドナルドの『ファンタステス』が、愛と死が同一であるような種族を描いた作品、として紹介されている (p.117) のも、おやっと思った。