Visual Pleasure in 1959

↓えらいとこにトラックバックされたなあ。文学関連がわたしと小谷野敦さんだけっていうアンバランスさには、どう反応したらいいのか。ここは半分くらいはだらだら身辺日記なんだけど……。こうなったのは要するに、「断片部」のチェックは社会学系が主で、その社会学系のブログ、稲葉別館の別館とか、梶ピエール日記とかがわたしのアンテナに入ってるせいじゃないかと思う。
文学理論、ラカンおさらいとサイードちょっと。動物文学ゼミ、Coetzee, Disgrace 1-6 章。
ゼミ、『去年の夏、突然に』。D・A・ミラーの "Visual Pleasure in 1959" in Ellis Hanson ed., Out Takes: Essays on Queer Theroy and Film (Duke UP 1999): 97-125 をネタに少し喋る。この映画でいちばん印象的なシーンの一つは、濡れると透ける水着――画面では残念なことに透けてません――を着させられたエリザベス・テーラーが、浜辺にあがって屈辱に耐えられないように崩れ折れるところ。これを水着の若い男たちが金網につかまって見ているのだが、テーラーのショットと男たちのショットはずっと交互に置かれていて、最初は位置関係がわからない。この崩れ折れシーンでカメラが引いて、初めて、じつは男たちがここで見ているのはあの奇形的にたわわな胸ではなくて、あくまで後姿なのだとわかる。そしてこの映画の破滅的ゲイ、セバスチャンは、回想シーンで終始後姿だけで現れてひょこひょこ走る。ミラーがいつもこだわるように、後姿とお尻は、服に包まれていてもクィアにおいしいのだ。同性愛を主題にしながら画面はエリザベス・テーラーのハイパー・ヘテロ・ボディに支配されている映画だが、そこに後姿や水着で、ゲイ的にそそるシーンが入り込む。そして長大な回想シーンでは、まさにセバスチャンの背中と、それを語るテーラーの顔が同じ画面に映り、いったいどちらを見ることに快楽を感じているのかわからなくなるのだ。
卒論ゼミ、G君のゲイリブ。カミングアウトはみんなしなくちゃいけないのかどうか、とか。わたしは基本的にはすべきだという考えだが、それはお前がゲイじゃないから言えるんで、他人にカミングアウトを強いるのは暴力だ、と言われるとそのとおり。まあ政治参加を強いること自体が暴力なわけだが。