肉体は復活するか

Fernand Vidal, "Brains, Bodies, Selves, and Science: Anthropologies of Identity and the Resurrection of the Body" Critical Inquiry 28 (Summer 2002): 930-74。最後の審判に際して人は復活するが、復活のときに肉体はともなっているのか。だとしたら死んで四散した肉体はどのように再度集められるのか、腐敗したり、動物に食われて消化されてしまった肉体はどのように復活するのか、またなにをもって他でもない「その人の」肉体とみなすのか……。現代でいえばアイデンティティの問題は、こうして神学的文脈で議論されていた。ロックらを介して、アイデンティティは心にのみ、脳にのみあるという考えが支配的になっていくわけだが、肉体に基礎を置く考えも存続する。たとえばボイルは、あらゆる粒子の基礎は一つであり、さまざまに変化しうるものなのだから、最後の審判に際して神は地上の身体を編成しなおし、それを素材に新たな身体を作り直すのだと考えた。とくにおもしろいのは、オランダの哲学者・生物学者ニーウェンティイトが『宗教哲学』(1714)でしめしている stamen という概念。受胎の核というか、そこから生命が発達してくる胚のようなもので、けっして他の生命と交わらないし、いつまでも存続する。これが各生命の「自己」の基盤だというわけだ。フランスではビオンの『摂理と復活の肉体的可能性』(1719)が、やはり「動物胚」の不滅性を主張している。これが1770年頃のボネの著作になると、個人の基盤は脳の記憶であり、それが死後は「小さなエーテル機械」なるもので保持される。身体よりも脳が主役につくのだ。十八世紀は、神学の議論がやや実証的な生理学と重なる時代なわけで、ほんとにおもしろい。