映画 フェミニズム

シンポジウム「映画/歴史/フェミニズム」@明治学院。司会・四方田犬彦。同時通訳つき。
アリソン・マッキー『幽霊と未亡人』論。幽霊は、時間を逆転させるもののように思えるが、この映画ではむしろ時間を越えて偏在するものだ。とくに幽霊の声を聞いて不動産屋が逃げ帰るシーン、古典映画の切り返しの規則に沿ってみれば、彼の後ろ姿を見ているのはそれまで彼と話していたジーン・ティアニーのはずだ。しかし実際には彼女が振り向くのはその場面の後のこと。つまりここでは、幽霊の視線が女の視線と一致して、ジェンダー構造を擾乱しているのだ。野沢公子のコメントは、娘に幽霊経験が引き継がれるところがいい、と強調していた。
ヴィッキー・キャラハン「セレブのロマンス」。結婚指輪のCMや、ダイアナ妃、ブラピ&アニストンなど、セレブの結婚・離婚がロールモデルを通り越してパロディになっているさまを語る。とにかくどっさり集められた映像がおかしい。『ニューヨーク・ニューヨーク』のライザ・ミネリと『スター誕生』のジュディ・ガーランドの歌を観て〆。鷲谷花のコメントは、レスリー・チャンの葬儀で、香港での報道では彼の恋人のロマンティックな喪失が強調され、結果として同性愛が一種のロールモデルになったのに、日本では全然そうならなかった、など。あとで日本の皇室の結婚はどうなのか、という逆質問が出て、フロアから「日本の若者は天皇家と結婚したいとは思ってない、むしろ避けられる対象です」という声が出てアメリカ人一同爆笑。
ジャネット・スタイガーは1920年代から30年代前半のファム・ファタール、ヴァンプの系譜の分類学。この時期、性にも金銭にも攻撃的な欲望する女が、むしろスクリーンの主流だった、という。あとでこうした女たちの大部分がブロンドであったことの意味を問う質問が四方田さんから出て盛り上がってた。当初は映画という装置自体がスキャンダラスな際物だったから、セダ・バラのような黒髪がフィーチャーされたけれど、しだいに映画が主流の娯楽になるにつれて、白人女性の一般的な価値観に近づいていくのでは、とか。富田美香は返歌として、歌舞伎など日本の毒婦の系譜の図像学。鈴木澄子のネコ目や、役者絵の刃物のふりかざしかたなど。大うけ。格子柄は毒婦の印だそうです。阪妻は、勝手に身分違いの女に岡惚れして自分で破滅するという役が多いとか。
パトリシア・ホワイトは、「女性映画」というアート・ジャンルの流通について。この辺で集中力をなくしてきたのと、話者のマイクの使い方のせいで(わたしの英語力だとこういうことにすごく左右される)聞き取れないところが多すぎて、細かいところの理解は怪しい。ディーパ・メータの「火・地・水」三部作などが、インドの外に出ると、女性映画というより、古典的ヒューマニズムの語り直しと捉えられる、という指摘が面白かった。斉藤綾子の質問は、流通ではなく「女性映画的美学」ははたしてなんなのか、というもの。後のセッションでは、多くの女性映画はドキュメンタリー・タッチで、つまりむしろ「反美学的」に撮られている、という答えで、なるほどと思った。
大トリ、ローラ・マルヴィ。ジガ・ヴェルトフを流して、映画が静止画と動画の緊張からなるところから始まり、物語の流れに入るのではなく画像を静止させて人を「石化」しプンクトゥムとして刺し止める効果、など。映画は百歳を過ぎ、映画の世紀だった二十世紀もすでに過去となり、喪失の対象となっている。ヴィデオやDVDといった新たなメディアによって、映画が古いメディアとなるとともに、観客は受動的に物語に巻き込まれるだけでなく、ストップモーションやスローダウンで、死を作りだす……。最後は『紳士は金髪がお好き』のモンローの歌と踊りのスロー、ストップが何度も繰り返される映像。わたしの書き方では伝わらないと思うが、とにかく「文体」の持ち主であり、理論の力が詩であることをひさびさに痛感する。わたしのような短気な人間が、いつまでも人の話を聞いていたいと思うことはめったにない。竹村和子は明確に内容をまとめた上で、テクノロジーの変化の政治的含意と未来への展望は?と、竹村さんらしい無茶な問いを投げつけていた。マルヴィは、「質問大きすぎ」と言いながら、「自分の『視覚的快楽と物語映画』(1975)の頃は、フェミニスト映画批評が世界を変えると思っていて、いまはその考えも喪失されて……」などと苦笑いしながら語っていた。
主催者側(四方田・斉藤)以外の日本人のコメントが、けっこう気を使わない早口が多くて、同時通訳の方たち、お疲れさまでした。大教室でありながら議論も盛り上がったが、あらかじめ英語で質問や情報を渡しておくほうが、もっといいのだろうな。会場を埋めた明学の学生が、たいがいちゃんと聞いているのにも感心した。「耳で聞いてわかるような話じゃないよねー」とか言いながら、アカデミズムの存在意義を認めて受け止めてる感じ。やはり、授業でなくてこういう実際にアカデミックな場に引きずりこむこと自体に意味があるのだ。
ドリンク剤でむりやり起きていたのが仇で、夜になっても眠れない。