文学理論、ラカンオイディプス・コンプレックス。動物文学ゼミ、Moreau 了。ラストは『ガリヴァー旅行記』にそっくりだ。ゼミ、『噂の二人』+フェダーマン『レスビアンの歴史』第一章。卒論ゼミ、Angus Stuart, "Captain Hook's Secret," Scotish Literary Journal 1998。『ピーター・パン』のフック船長にはチャールズ二世他のスチュアート王家のイメージが流れ込んでいる、という論文。バリーはスコットランド人だから、なるほどありえる話かも。フックに、国をなくした流浪の王家のイメージがかぶさるというのは悪くない。

レスビアンの歴史

レスビアンの歴史

昨日なぜ疲れたのかを、書かないといけないんだろう。まずわたしは、もっと顔を出さないとなあ、と思いつつ、ストリート系の運動に近い場から離れて久しい。古典的な市民運動にはかかわったことがない。それに後ろめたさがあるといえばある。教員なんだから、知識や視点を学生に啓蒙的に伝えれば、いちおう政治的な役目ははたしてるともいえるけど、新左翼系のかつての知人にこういうところで顔をあわせると、「最近不義理ですまん」みたいな気分になる。
ただ、疲れた直接の原因はそれではない。昨日は7時半くらいから発泡酒とか稲荷寿司とかを運び入れて、まず歓談になった。その後よくあるパターンで、全員の自己紹介というかスピーチを回していくのだが、こういういつ終わるかわからないセッションは苦手だ。鋭いことば、心に染みることばも聞けるが、のべ三十二人で二時間ずっと人の話を聞くのは辛い。とりわけ、「ここではこうやって話をしているのに、外では沖縄のことを誰も知らないし関心がない。メディアは報道しないし、われわれの声は届かない。このギャップはなんなのだろう」といった発言が続くと、消耗する。こういうことは、その場にたくさんいる教員は、中高大学予備校を問わず、言わない。もちろん、教員には言いたいことをとりあえず言える場が確保されているからだ。「なぜこれほど重大なことを誰も聞いてくれないのか」と口にするのは、学生や若い市民活動家が多い。要するに制度的な「発信弱者」の内輪に向けての愚痴だし、愚痴を言う場はもちろん必要だけれど、三十人を前に立ちあがって喋るときに、まずそれが口に出るというのは、そう言わせてしまう構造がすでに運動のなかにできてしまっているということだ。聞いていると、身体の骨が軋む感じがする。なぜわたしの話に耳を傾けないのか、といったって、そりゃ誰も他人の話なんて楽しくなけりゃ聞かないというだけのことよ。
プチナショというかいわゆる若者の右傾化については、小田嶋大人 http://takoashi.air-nifty.com/diary/ の10月28日のエントリーが言い尽くしている。三浦展下流社会』風に付け加えれば、いまや多くの人は、左翼は信用できない偽善者で、金持ちはとりあえず自分の欲求に正直であるという点で仲間だと思っている。下流に属するものがなぜ相対的に自分に利益を与えてくれそうなリベラルな政治を支持しないで、弱肉強食路線を支持するかといえば、そっちの語り方のほうが正直に、自分たちでも理解できる欲望や野心を語るからだ。人は、自分に理解できるが実行できないことをおこなう人間に共感する。左翼の語りは、他人事のはずの沖縄や韓国に肩入れをしているという点で、理解不能だ――活動家は、ふつうには理解できない異常な享楽を経験しているようにみえるし、しかも迷惑なことに、その享楽は当然誰もが味わうべきものであるといって押し付けてくる。活動家は、ジジェクがいう意味――異人種とは、得体の知れない享楽を享受しているものたちである――という意味で、ほとんど人種差別の対象なのだ。
この話、とっさに落ちがつかないので、今後に続く。