動物は折り紙である

休日といってもたいがい自転車でいける範囲でしか動かないわたしが、さてその範囲でどこに行くかといえば、生活の他の全てがそうであるように本を読むことに左右されている。杉並には十四の、武蔵野には三つの、三鷹にも三つの公立図書館があり、あたりまえだがそれぞれ置いてある本が違う。もちろんどこの自治体でも自分の近所の図書館に取り寄せはできるけど、行き当たりばったりに仕事をやっていると、「あ、明日までにこの本読まなきゃ」ということが多くなり、その本が置いてある図書館に走っていく、ということになる。
というわけで今日は阿佐ヶ谷へ。しかしなんと他で借りていたクッツェーを返し忘れており、延滞で本が借りられない。呆然。実際には大部分閉館までにその場で読めたとはいえ、気分低下。このまま帰るのが癪なのでイズミルで薄焼きピザ(ミートソースが塗ってある)とか茄子ペーストとか。ああ美味しい。イスケンデルケバブはちょっと塩辛いか。カラオケ、GO GO 7188その他。

美味しい料理の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

美味しい料理の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

(この本を読みに阿佐ヶ谷に行ったわけではありません。)美味しい料理の「本質」として「肉」と「骨」が立体的に絡み合っているという議論を展開する、きわめて新プラトン主義的な原理論。肉と骨は、あるときは焼き鳥の肉と串だったり、ソースとパスタだったり、鮎の塩焼きの身の部分と焦げた皮の部分だったりする。カツ丼においては、カツと卵が肉で、ご飯が骨だとも言えるし、カツが肉で卵と玉葱が骨だとも、肉が肉で衣が骨だともいえる。磔刑図なら、イエスが肉で十字架が骨。いずれにせよ、一枚の折り紙が無限の折られ方によって変わっていきつつもたった一つであるように、料理は、さまざまな食材の具体的な組み合わせの結果が、それぞれ無限のヴァリエーションをもちつつも一つの原理を表現し、世界の全体をわれわれに把握させてくれるものなのだ。わたしがこれを読んだのは、第二章でこの理論がキュヴィエとジョフロワ・サン=ティレールの対立と重ねあわされているから。もちろん著者の共感はサン=ティレールのほうにある。キュヴィエのように、脊椎動物と他の動物をわけるとか、機能面での整合性を重視するといった細かいことは気にせず、あらゆる動物に共通する一つの平面=プランを構想する姿勢が、廣瀬氏のそれと重なるのだ。
しかしドゥルーズの哲学と新プラトン主義の関係って、どうなっているのか。ベルクソンドゥルーズの運動論は、たしかにきわめて一元的な原理論なのだが、それとサン=ティレール的思想が重なるかもしれないというのは、いままで考えたこともなかった。このへんのこと、誰か教えて欲しいです。