Lessness is the condition of allness

Forms of Being: Cinema, Aesthetics, Subjectivity

Forms of Being: Cinema, Aesthetics, Subjectivity

『軽蔑』『オール・アバウト・マイ・マザー』『シン・レッド・ライン』三つの作品論。映画論だから当然だが、デュトワが書いていると思しき部分が多く、とくに第二章はほとんどそうではないかと思う。もっともわたしはデュトワの単著というものは読んだことがなく、二人の共著からベルサーニ的部分を引いた、より視覚的でわかりやすい部分をデュトワのものだと勝手に思い込んでいるだけなのだが。全体のテーマは the implausibility of individuality (p.6)、確固たる主体性を信用せず、それが他の人間や周囲の情景と混ざり合っていく――ではないな、平行して存在しているというか、並置状態になる契機に目をこらす試み。
『軽蔑』論では、そもそも映画のキャラクターの心理を解釈することのうさんくささが指摘されている。この映画は妻の夫への軽蔑を描いている、ことになっているが、どうしてそんなことがわかるのか。スクリーンの上には軽蔑など映らないのだから、そうした心理を読みとろうとするわれわれは、スクリーン上の人物を、ラプランシュのいう「謎めいたシニフィアン」――単純化していえば、無力な子どもがその愛を得なければならないと感じる親――として受けとっているのだ。ゴダールがこうした心理ドラマの外に出るために映し出すのは、妻(ブリジット・バルドー)とプロデューサー(ジャック・パランス)がただ並んで歩いているシーン、ただ車に同乗するシーンのような、純粋に肉体的・物理的な並置だ。そしてこうした視点では、この作品のなかの「映画内映画」の原作である『オデュッセイア』のオデュッセウスとペネロペイアは、作中の夫婦のモデルとかシンボルではなくって、たんに時間という空間のなかで、同時に存在していることになる。互い同士が似ているからとか、どちらかが起源だというのではなくて、ただ同じ空間にあること、それを映画のフレームは許すのだ。
シン・レッド・ライン』では、とくにトップ(ショーン・ペン)の目を細める芝居について、「トップはウィット(ジム・カヴィーゼル)に比べて何もかも見えている、この世の悪が見えているようにふるまっているが、しかしつねに目を細めて、ほとんどなにも見ないかのようだ」という指摘がおもしろい。ウィットも、そしてある程度まではトップも、意図や視点をもたずにただ世界のなかにいて、世界と同時に存在している。スペクタクルとして周囲を見るのではなく、ただそこにいて、見ることなしに見る視線、主体なき存在の、関係をもたない関係性 connectedness を、この映画は提出している……。Caravaggio's Secrets (October Books) の議論を映画でおこなうのにこれを選ぶというのは、ただこの映画の静謐な美しさのせいだけではなくて、攻撃性と享楽と「ただ並置して在ること」との関係を論ずるために、戦争映画が適切だということなわけだが、その辺まだあちこちわからないところがある。再読する暇があったらまた書きます。