Lessness is the condition of allness
Forms of Being: Cinema, Aesthetics, Subjectivity
- 作者: Leo Bersani,Ulysse Dutoit
- 出版社/メーカー: British Film Institute
- 発売日: 2004/06/30
- メディア: ペーパーバック
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『軽蔑』論では、そもそも映画のキャラクターの心理を解釈することのうさんくささが指摘されている。この映画は妻の夫への軽蔑を描いている、ことになっているが、どうしてそんなことがわかるのか。スクリーンの上には軽蔑など映らないのだから、そうした心理を読みとろうとするわれわれは、スクリーン上の人物を、ラプランシュのいう「謎めいたシニフィアン」――単純化していえば、無力な子どもがその愛を得なければならないと感じる親――として受けとっているのだ。ゴダールがこうした心理ドラマの外に出るために映し出すのは、妻(ブリジット・バルドー)とプロデューサー(ジャック・パランス)がただ並んで歩いているシーン、ただ車に同乗するシーンのような、純粋に肉体的・物理的な並置だ。そしてこうした視点では、この作品のなかの「映画内映画」の原作である『オデュッセイア』のオデュッセウスとペネロペイアは、作中の夫婦のモデルとかシンボルではなくって、たんに時間という空間のなかで、同時に存在していることになる。互い同士が似ているからとか、どちらかが起源だというのではなくて、ただ同じ空間にあること、それを映画のフレームは許すのだ。
『シン・レッド・ライン』では、とくにトップ(ショーン・ペン)の目を細める芝居について、「トップはウィット(ジム・カヴィーゼル)に比べて何もかも見えている、この世の悪が見えているようにふるまっているが、しかしつねに目を細めて、ほとんどなにも見ないかのようだ」という指摘がおもしろい。ウィットも、そしてある程度まではトップも、意図や視点をもたずにただ世界のなかにいて、世界と同時に存在している。スペクタクルとして周囲を見るのではなく、ただそこにいて、見ることなしに見る視線、主体なき存在の、関係をもたない関係性 connectedness を、この映画は提出している……。Caravaggio's Secrets (October Books) の議論を映画でおこなうのにこれを選ぶというのは、ただこの映画の静謐な美しさのせいだけではなくて、攻撃性と享楽と「ただ並置して在ること」との関係を論ずるために、戦争映画が適切だということなわけだが、その辺まだあちこちわからないところがある。再読する暇があったらまた書きます。