ウサギのおばけ、マンガのおばけ

先週金曜にキャシー・ギャラガーとマーティン・ジェイが京都に来ていたことに今頃気づく。どうせ土曜に神戸に行くなら行っときゃよかった。週末のパネルの原稿、ハンドアウト1827年のロンドン地図 http://users.bathspa.ac.uk/greenwood/imagemap.html の切り貼りとか。

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

名著。現在のマンガ論の枠組み――「マンガはつまらなくなった」とか――は現状に対応できていない、たとえば「ガンガン系」を視野に入れることができていない、といった序章の指摘を読んでいるあいだは、タイトルは象徴的なものだと思っていて、後半で真っ向から手塚を論じていてびっくりした。山場は、『地底国の怪人』(1948)の耳男ことウサギ人間をとりあげて、「キャラ」と「キャラクター」という対立概念を作っている第三章。「キャラクター」というのは、意識の深みや厚み、人生をもった存在で、「キャラ」はもっと表層的なもの。手塚が「マンガの近代化」においてなしとげたのは、「キャラクター」を描くことだった、そしてその枠組みがいまだにマンガ論を支配している……。つまりこれは、東浩紀ポストモダン動物化論をうけて、それではそのポストモダンに対するモダンとはなにかを手塚に探るという、直球の系譜学的研究なのである。
NANA』はキャラは弱くてキャラクターが強い、という指摘は、ほとんど展開されないで終わっているのが残念。実際わたしのような年寄りというか「モダン」なマンガ読みがこれにははまるのだから、正確な指摘だと思う。それがいまの少女マンガというジャンル全体とどう関わるかは、もっと少女マンガに詳しい人がやってくれ、ということだろう。
この本と直接関わることじゃないが、宮本大人氏はこの後どんな本を書くのかな、と思った。宮本は一般的には伊藤より無名で、これまでどちらかといえばアカデミックな媒体をゲリラ的に利用してマンガ論を書き続けてきたが、ここでは伊藤の論の節々、しかもすごく重要なところで宮本の仕事が先行研究として引かれている。『新宝島』が近代マンガの起源であるという神話の解体とか。『新宝島』の技法は、けっして戦前のまんがと断絶しているわけではなくて、たとえば藤子不二雄Aが衝撃をうけたというその圧倒的な新しさの感覚は、戦時中にまんが出版が衰退して、それ以前の伝統がいったん途絶えてしまったためもたらされた、というものだ。藤子の世代は戦前のまんがをよく知らなかったということ。こうした部分で伊藤は、ほぼ宮本の論に依拠している。これで宮本がもっと広く知られて、彼自身の単著が出るといいと思うが、宮本としては、ほぼ同世代でだいたい同じ論を立てていて、ひじょうにポレミカルなこの本に対して、どういう立ち位置をとるのかというのは、ちょっと厄介なんじゃないか、とか。大きなお世話か。