昭和残侠伝一挙書き

CALL英語、会議。校正。来週学会発表する院生の予行演習につきあう。エコ・フェミ批評を政治的にニュートラルな説明の道具に使う、ってのは土台無理ではないかと。
予告したとおり、ここのところ『昭和残侠伝』シリーズを続けて見た。全九本中六本。思った以上に一本一本違う、のだが、とはいえ一週間もすればどれがどれだかわからなくなること請け合いなので、ここにメモっておく。
『昭和残侠伝』(佐伯清、1965)。他はすべて昭和初期だが、これだけ終戦直後の浅草の闇市。市の仕入れを仕切るやくざと、「売り手」と呼ばれる市場の売り子たち――みんな汚いなりをして弱っちそう――との濃い関係がわかる。売り手の夢は、立派な二階建ての「マーケット」に入ること。敵の一家はそれを餌に彼らを引き抜くのだ。新興資本と昔気質の対決という構図は、いちばんはっきり出ている。健さんは戦地帰りの若頭、池部良は客分、「お控えなすって」口上がフルヴァージョンで聞ける。ただし着流しでなく背広。弟分に松方弘樹。池部は殴りこみでピストルをおもに使っている。いるのを忘れてしまいそうなヒロインに三田佳子
『昭和残侠伝・唐獅子牡丹』(佐伯、1966)。シリーズ二本目。今回いちばんクィア度が高い。主役二人の名前はこれ以降ほぼ定着する。舞台は宇都宮の石切場。一宿一飯の仁義で旧家の組長を斬った花田秀次郎(高倉)は、お勤めを終えると自分が殺した男の墓に参り、そこで出会った未亡人(三田佳子)と息子の世話を焼き始める、という展開がもうホモソーシャル度満点。足を洗って板前になっている弟分(津川雅彦)の美貌がこの印象に拍車をかける。風間重吉(池部)は、旅から戻った組の元差配だが、体調でも悪かったのか迫力がいまひとつで、道行のシーンはいつも以上に女性的。使用はピストルと小ドス(これが池部にはいちばんいいと思う)。敵の親分(河津清三郎)は、もとはこちらの組の石工だったのだが、「親方になってやる」の一心でここまで上ってきた男。このへん敵にもマルクス主義大義があるのがいい。仁侠映画は室内と路上セットのみというものも多いし、そのほうが純度が高い感じがするが、ここでは石切場雄大な空間が西部劇風。『日本侠客伝・花と竜』の荷揚げ場などもそうだが、仁侠映画におけるこうしたオープンスペースの意義はもっと論じられていい。狭義のやくざでない荒くれ者の世界を表しているからだ。敵のしかけた発破でふっとぶ組の長老に花沢徳衛
『昭和残侠伝・一匹狼』(佐伯、1966)。三本目。舞台は銚子の漁港。健さんは、かつて弟分の女房だった扇千景が肺病で死にかけてるのを実家に連れてきて、騒ぎに巻き込まれる。池部は敵の一家の客分で、小料理屋の女将(藤純子)の兄。かつて健さんの親分を斬り殺し、組を解散に追いやった宿敵だった。二人が互いに何者かわかったすぐ次のショットでざっばーんと波が飛ぶ海岸の果し合いとか、ケレンびしばしの演出で、このシリーズというより『網走番外地』か、七十年代劇画原作路線みたいに見える。果し合いのシーンは、ふつうにやると池辺良が下手すぎるからだろう、細かくカットを割っているが、殴りこみではその池部に長ドスを持たせているのがよくわからない(もちろん恰好よくない)。弟分(小島慶四郎)はいまは女座長(雪代敬子)率いる旅芝居一座の一員で、これがアクセントになっている。
『昭和残侠伝・血染の唐獅子』(マキノ雅裕、1967)。四作目。脚本が変わって鈴木則文。これ、やくざ映画じゃないじゃん。上野の鳶職一家(主・加藤嘉)が、制作年代を反映して不忍池の博覧会の仕事を請けおうが、元博徒の建設業者(河津)から横槍が入る。じつはラスト近くになるまでまったく血が流れず、気のいい鳶たちの集団劇という感じ。惚れた芸者の身請けに組の纏を質に入れ、それを敵方にもっていかれて取り返しにいった山城真吾が殺されたところで健さんは立ち上がる――のだが、相手方も、殺すことねえやな。池部は敵方の代貸、親分の無体さに意見して破門される。高倉・池部の道行は製作側の決めたことで、マキノは嫌だったのだろう、ふだんは人工的な野っ原か人気のいない路地を粛々と歩いていく二人だが、ここではなにもふだんと変わらず明るく灯の点った街中を、いつも以上のロングショットで進んでいく(浴衣姿で花火している人とかがいるのがいい)。口元と頭のまわりがやや足りない滑稽な若い衆になんと津川雅彦。飲み屋で働く池部の妹に藤純子。マキノが監督だと、藤・高倉のやりとりが愛嬌を帯びて、幸福感が漂う。あと、人物の頭のてっぺんが切れている絵が多い。
『昭和残侠伝・人斬り唐獅子』(山下耕作、1969)。六作目。凡作。舞台は玉の井満州浪人ナショナリスト従軍慰安婦――ということばはもちろん使ってないが――の斡旋などをしてる)をバックにつける無体な組の代貸に池部、お勤めから戻った兄弟分に健さん。二人が最初悪役側につくのが斬新だが、敵の暴虐に耐えて耐え、というプロセスがないとどうも盛り上がらないし、ただのやくざ同士の縄張り争いにしか見えない。替わってドラマの中心は昔気質の組の親分の実子(長谷川明男)だが、こいつがすぐ勝手に突っ走って殴りこみなぞかけては組に迷惑をかける馬鹿。もちろん学生運動が重ねられているのだが、最後はどうせ殴りこむわけだから、我慢しろと言ってるのかそうでないのかメッセージがわからん。珍しい健さんの「お控えなすって」があるが、はっきりいって下手糞で、奥から出てきた池部良に「いいからさっさと上がってくんな」と遮られる。
『昭和残侠伝・死んで貰います』(マキノ、1970)。七作目。言わずとしれた名作。尊敬するアメリカ・モダニズム研究のM先生は、仁侠映画の熱狂的なファンでもあり、『市民ケーン』『2001年宇宙の旅』とこれを、生涯のベスト3に選んでいた。わたしが「やくざ映画なら『博奕打ち・総長賭博』が好きなんですが」というと、M先生は「あれはアートにすりよりすぎていてねえ」と言ったものだ。この映画を特徴づけるのは、複数の人物が動いて、所作が止まったところでぴたっと「決まる」画面構成。カメラも、回数は少ないが、ゆっくりと横ないし奥に滑って、人物も含めて動きが止まったところでやはり「決まる」。毎回毎回終三和音が鳴るような感じがする。この映画の助監督だった澤井信一郎は、後に仙元誠三と、被写体に向けてゆらゆらと揺れながら近づいていく不思議なカメラワークを作り上げるが、あれはこの映画の古典的な技法から、「決め」を奪ったものなのかなあ、と思う。こういうことは誰かがすでに言ってるのだろうが。
一昨日も書いたが、シネスコ画面は日本人の身体に合っている。畳で二人の人間が向かいあうところなども、きわめて安定した古典的な構図に見えるし、この時期の東映シネスコだからといって特別なことをやってはいない。というわけでこの作品は、「シネスコで撮られたスタンダード・サイズの映画」として、世界映画史上の最高傑作だろうと思う。とはいえわたしはこの映画の藤純子は苦手だし、ほとんどが室内で格調高く撮られた画面は、いささか窮屈に感じてしょうがない。まだまだこれを味わうには修行が足りないようです。

昭和残侠伝 [DVD]

昭和残侠伝 [DVD]

昭和残侠伝 一匹狼 [DVD]

昭和残侠伝 一匹狼 [DVD]

昭和残侠伝 死んで貰います [DVD]

昭和残侠伝 死んで貰います [DVD]