ディアスポラ

成城。榎の交差点でいつもと違う小路に入ったらあっという間に道に迷い、環八に出そうになる。これは祖師ヶ谷大蔵ウルトラマン商店街が悪い。「ウルトラマン商店街」としかのぼりが出てないんだもの。祖師谷と一言言ってくれれば、いくら方向音痴のわたしでもどっちに向かって走ってるかわかったはずだ。講義、英文購読。前期試験とレポートの解説。

ディアスポラ (ハヤカワ文庫 SF)

ディアスポラ (ハヤカワ文庫 SF)

原著1997。学会シンポジウムの直前に、しかも〆切抱えてこんなもの読むな、と言われそうだ……。巷では、第一章をクリアすればあとはなんとかなる、という噂も流れているが、大嘘です。少なくともわたしには、ソフトウェアがたった一つの信号の反復・増幅から意識をもった「人間」を作りだすプロセスを描いた第一章は、逆にわりにすんなり読めた。ことにこうして生まれた主人公ヤチマが、最初自己認識をもっておらず、観境(誤字にあらず)内の自分を他者として認識していながら、ついに自己認識を獲得するところは、ラカン的な鏡像理論の物語化として完璧である。(わたしは『万物理論』のラカン的読解という論文?を書いたことがある。いまのところ読んだ人からの反応がゼロという、これまでのところ唯一の論文だ。)
しかしこの後が全然楽にならない。この小説は一貫したプロットをもつとは言えず、大きな流れのなかのエピソードが一つ一つ語られるかたちをとっていて、そのたびごとに新たなハード・サイエンスのアイデアが出てくる。第四章の宇宙観測、第七章以下の理論物理学、頻出する生体工学……。立体幾何が苦手な人間にとっては、リーマン幾何の問題演習のごとき第二章、三次元と五次元の「重力井戸」が比較される十五章は、まったくイメージ化できず、イーガン自身のサイト http://gregegan.customer.netspace.net.au/DIASPORA/DIASPORA.html の図解を見て、やっと少し呑みこめた。イーガン版の綜合ひも理論というべき「コズチ理論」にもとづいたワームホールに関しては……うーん、ちゃんと理解できないのは当然だが、致命的なことに、どこが面白いのかがそもそもわからない。凡庸な(SFファンが慣れている)ワープの理屈と精密さ以外のどこが違うのか、誰か教えてほしい。
しかし第一章の詩的な立ち上がりと、後半のさまざまな世界描写は、圧巻。一般にこれは、ソフトウェア化した人類が宇宙旅行に乗り出す世界を描いた作品、といわれている。それはその通りだが、意識のソフトウェア化自体は、この小説のメインアイデアとはいえない。そちらに関心があるなら 『順列都市』 を読んだほうがいい。『ディアスポラ』 の世界では、ほとんどの登場人物は最初からソフトウェアとして生まれていて、それはあたりまえにうけとっているからだ(肉体人からの移住者はべつ。それからクローンとの関係はけっこう突っ込んで描かれている)。ソフトウェア人と肉体人、そして本書ではグレイズナーと呼ばれる機械人との対立が描かれる第六章は、なんとも懐かしい五○年代SFか 『999』 のようなノリで迫力満点だが、だからここも主眼とはいえない。
じゃあなんなのか、というと、この後の Schild's Ladder (2002) もそうだが、これは壮大なファースト・コンタクトSFであり、それが徹底して緻密なディテールで描かれているという意味で、また無限の期待と挫折の両方に開かれているという意味で、理論物理学版『宇宙のランデヴー』といっていいと思う。壮大な遠未来と人類自体の変遷を描いているという点で、誰もがこれと比較するのは、ステープルドンと 『幼年期の終わり』 なわけだが、イーガンには、意識の集合化という要素がない。この小説にあるのはあくまで、ヤチマとイノシロウ、パウロといった、個々の人間のドラマだ。そして彼らの多次元世界の探求は、どれだけ多くの人命を救っても、どこか孤独なものだ。徹底した真理の、未知の探求者たちが「他者」を捜し求めるドラマとして、すごく古典的な感動を与えてくれる。