精神分析とのつきあいかた

校正。明日の学会の下準備。ちょっと連絡の不備とか。
図書新聞」に自分の本の書評が載る。評者は伊野真一さん。当然仮想読者の一人であるかたに、丁寧に読んでもらえるのはそれだけで嬉しい。で、最後にこちらに、伊野さん曰く「愚直な」問いかけがされている。精神分析の使い方がいささか安易ではないか、というのだ。この本は、クィア批評の構えのある部分が、ゲイ・アイデンティティをもつ人間を排除しかねないことにはわりにセンシティヴなようだが、精神分析の、しかも臨床の現場を離れた高度に抽象的な理論のもてあそび(とは伊野さんは言っていないが)は、あまりに密室的であり、当事者性の無視につながらないだろうか……。
じつは似たようなことは、博論審査のときに茗荷谷のT先生にも言われた。わたしは、文学批評というスタイルがいかにクィア理論に意味をもち、ゲイ・アクティヴィズムとどう関わるかについては、それなりに自分の立ち位置を慎重に定めている。しかし「なぜ精神分析を使うか」については、たんに「セクシュアリティを思考するためにいちばん使われて発展した道具だから」ですませている。T先生は、本の後ろに行くほど、つまりジジェクやバトラー、ベルサーニを論じている第三部になるほど、理論的にはより高度になり、かつ構えが軽くなっている、と言ったのだ。
で、伊野さんにうまく答えられるかどうかわからないが……。結局わたしは、文学は自分の問題だと思っているが、精神分析についてはそう思っていないのだろう。そのぶん、文脈を無視して勝手に、純粋に知的な遊戯として読んでいる。T先生の言うとおり、わたしの精神分析に対する態度は軽く、その歴史性、場合によっては被治療者への抑圧に満ちた歴史について、あまり意識にいれていない。それがいけない、という自覚がないわけではないが、制度的にそうした意識の倫理性を引き受ける立場にはいないし、正直にいってしまうと、普遍的思想の道具としての精神分析は、道具としてあまりに使いやすく、これがないとたぶんなんらかの体系の拠り所が浮かんでこない。……これでは答えになってないな。たしかに、精神分析を使って議論を組み立てるのは、わたしにとって思考モデルの上でも心理的な負担の上でも「楽」なわけで、それがいかんと言われたら、伏してお詫びするしかないかも。
英語圏の批評アカデミズムが、必要以上に難解に、ぺダンティックになりすぎてしまっている(そして精神分析はそれに大きく一役買っている)ことには、ときどき苛々する。ある人が雑談のなかで、バトラーの仕事も The Psychic Life of Power になるとほとんど禅問答の世界だ、と言っていたが、その通りだと思う。じゃあなんでそんなものについて書くのか、といわれると、うん、書いてみないとその禅問答ぶりがつかめないから、ということになるか。わたしは難解さを尊ぶ気持ちはまったくない。自分の書くものがときどき難解だとしたら(いちおう自覚はある)、たんに下手糞か、短気でことば足らずなのか、どっちかだろうと思っている。だからバトラーやベルサーニに付き合うのは、彼らの「難解さ」を地上に引きずりおろして、「わかりにくいのはかなりの部分短気で下手糞なだけじゃん」と言い、難解さへの信仰を破りたいからかもしれない。それは自分がある程度できる仕事だし。その結果が、「密室遊戯」に見えるとしたら……「引きずりおろし方」が足りないということか。なにかに対する批判は、どうしたってそのなにかに依存する。この構図自体をあまり考え出すと身体に悪いのは、id:hspstcl 氏を見ててよく知ってるしな。やれやれ。