人的資本論

都税事務所の固定資産評価係のお相手。

「資本」論―取引する身体/取引される身体 (ちくま新書)

「資本」論―取引する身体/取引される身体 (ちくま新書)

全4章とエピローグからなるが、主張は第4章に集約されている。副題の「取引する身体/取引される身体」のほうが、内容を伝えてます。第1章は、えんえんとホッブズ、ロック、ヒュームの国家論の解説が続き、どうしてこれが「資本」論?と思うのだが、理由は4章にいけばわかる。丁寧に説かれているように、ロックの国家論では、社会契約の主体として「国民」になれるのは、財産=土地をもった者だけで、庶民はそこから排除されてしまう。庶民は外国に移住などできない=国家の外(自然状態)への脱出などできないのに、だ。ここでありきたりの議論だと、だからロックはいかん、弱者や他者をみていない、となるのだが、そこは稲葉振一郎、このロックの議論を受け入れた上で、だから「無産大衆」は財産をもった存在とみなされなければならない、そうでなければ「社会的存在」にはなれない(しつこいが、庶民はふつう国家の外には出られない)と断言する。無産大衆は無産ではなく、自らの労働力という「資本」をもった資本家であるはずなのだ。言っておかなければならないのは、この労働力が抽象概念ではなく、あくまで具体性をもった身体であること。労働者は抽象的な「労働力」を売るというより、労災で傷がついたり破壊されたりする可能性のある自分の身体を資本として使うのだから、売買というよりリースのモデルで考えたほうがいい、という議論も示唆に富む。
福祉やセーフティ・ネットの議論ではたいがい、最低生活水準というやつが問題になる。避難民救済などでもそうだ。まず水、食料、トイレ……。しかしそれって、自分ではなにもできない人間に「むき出しの生」のレベルで生きることを保証する、だけではないのか。現代では、肉体的な条件のためにいっさい労働できない人間など、ほとんど考えられないのに。コプチェクなどもずっと、この種の身体の安寧論にかわる倫理を見いだそうとしているようにみえる(うまくいってるかどうかはともかく)。あらゆる無産の庶民を「身体の資本家」として社会に参入させる稲葉の議論は、十分に実践的だと思う。
エピローグはロボット&サイボーグ論。人的資本の場合、資本の所有者と資本が一致しているところが他の財と違うわけだが、じゃあ機械=所有される資本が、身体と混ざり合ったらどうなるか……。もちろん、思弁として、読み物としては、ここがいちばん面白い。また機会があったら丁寧に読もうっと。