目の前が真っ暗になったわけだよ、あの頃はもうめくらだった

TV『続・座頭市物語』(大映1962、森一生〉。俯瞰気味にして奥行きをつけたショット(やくざたちが一斉に屋敷に入ってくるところとか、居酒屋の手前の卓と奥の卓とを同時に見せるところ)と、水平の高さから画面を横いっぱいに生かしたショットとが交互に使われていて、それだけで圧倒される。おたね(万里昌代)が、渡し舟で去っていく市を見送るシーン、わかりきった演出なんだが美しい。この年、勝新は二本の「座頭市」と二本の「悪名」を含む十一本の映画に出ている。全部が全部このクオリティではないだろうけど、撮影所の底力をまざまざと感じる。水谷良重のキャラが曖昧なのと、憎みあう実兄(若山富三郎)以外の悪役がしょぼいので、ドラマとしてはやや弱くても、だ。
現代思想』9月号(33-10)「特集・女はどこにいるのか」ぱらぱら。基本は介護論。齋藤直子は、スタンリー・カヴェルの『ガス燈』論を引いて、エマソンの流れに属す私的道徳的完成主義が、そのまま公共性への道でもあって、など。カヴェルのセルフ論と、ドゥルシラ・コーネルの想像的領域論をつなげるという仕事、誰かがやってるのだろうとは思うが、見てみたい。新城郁夫は、一九五六年の『琉大文学』に載った(そして米軍による発禁処分にあった)ゲイ小説、豊川善一「サーチライト」を論じていて興味深い。
新田啓子「遠いものを愛すること」は、ハウス/ドラァグ・カルチャーを、既存の異性愛家族概念とは違った親密性を垣間見させるものとして論じている――と言ってしまうとじつは単純すぎて、ここで終始意識されているのは、「ハウス」文化が主流文化の家族イメージに屈折した愛をもっていることだ。ドラァグ・ボールに代表されるようなゲイ文化を、ユートピア的に讃えるのでもなく、ベルサーニがやるように、結局主流文化の模倣なんだからそこまで立派なものじゃない、と強調するのでもなく、むしろ手の届かない、自分とは違うものへの憧れに、またべつの「親密性」を見いだそうということらしい。この親密性は、ふつうの家族内関係(しばしばDVを引き起こすような)でもないし、ゲイ・カルチャーの「類似性にもとづく」親密性でもないので、全然べつの概念じゃないかという気もするが、そこを同じことばで呼ぶことによって強引につなぐところに、新たな理論の可能性が感じられる。わたしがやるともっと低廻趣味になるテーマだが、新田さんは力強い文体で押し通していて、男前って感じ。