大学英語教育学会、あるいはいかに授業をさぼるか

JACET@玉川大。SEL-High (Super English Language Highschool 英語教育重点高校――それにしてもこの名称なんとかならなかったのか)の現状のパネル。もうちょっとデータが欲しいか。ふだん触る機会のない他社の CALL および教材作成システムにあれこれ触る。
e-learning 科目の授業報告、聴衆五十人超。三人でリレーして二十分喋るというやりかただが、スムースにいったし、質問もずいぶん出たし、やった意味はあったかな。正規の質問時間でなく、終わってからの立ち話でずいぶん聞かれたのは「これティーチングノルマに入ってるんですか」というもの。つまりですね、対面90分授業をやらないで1コマと数えるのは、英語教員のサボリではないかという学内の不審感をどうクリアーできるかという……。「大胆ですね」と言われたりする。
じゃあ実際どの程度サボりが可能かというと、当然口調がむにゃむにゃしてくるのであって、しかもこのブログ学部長も読んでいるらしいので、書かないほうがいいのかむにゃむにゃ。正直にいえば、現時点、やりかたも試行錯誤があり、新しい教材の導入をしている段階では、全然楽ではない。業者との折衝もいるし、解説を足したり、スケジュールに沿って組み替えたりという仕事が多いからだ。しかしですね、何年か続けて、教材がきっちりできあがって使いまわせる、あるいはアルクの「ネットアカデミー」のような、手を入れる余地があまりないそれなりに完成された教材を買って使う場合は、(小声で)手を抜くことは難しくないだろう(実際には何年かたつとシステム入れ替えなどが起こってくるので、そんな楽な状況は永遠にやってこない可能性が高いが。)もちろんその場合の「正解」は、空いた時間を使ってこまめにメールを出し、受講履歴をていねいにチェックしてそれぞれの学生をケアし、チャットルームの一つも作って受講者の帰属意識を高める、といったことだろう。しかしそれはやらなくても、この授業は成立する。そんなにメール連絡しなくても、学生は、ただそういうものだと思うはずだ。この種の授業の場合、あまりこまめに連絡しても「うざい」という反応があったりするからな。そもそもこれがノルマの5コマなり6コマなりのなかに入るかどうかは、こっちにとっては死活問題だが、学生にはどうでもいい話だ。
ここまでくると、e-learning がどうとかいうより、「完成した教材」というものが良いのかどうか、といった一般的な話のような気もする。大学のダメな授業としてしばしば槍玉にあげられるのは「毎年同じノートを読み上げる」というもので、どうかするとこれが諸悪の根源のように扱われる。しかし概論的な授業なら、毎年毎年極端に授業内容が変わるほうが変だろう。新しく未完成なネタと、なんどもやってできあがっているネタと、どっちがましか? もちろん「完成したノート」を読み上げるほうが教員は楽だが、それがいけないのはなぜだろう? 結局「去年と同じ講義」がいかんのは、それで「教員が楽をするのはいかん」からという、教育効果の上では本質的でない議論のせいではないのか。最近の文科省の態度をみると、「教員は教科書を教えていればよい」という思想にみえる。ダメだと言われがちな、毎年同じ出来上がった授業をやるほうが、推薦されているような気が。そんなもの大学の授業ではない、と言い切れるのかどうか、じつはわたしには自信がないのだ。