Down There on a Visit

Down There on a Visit

Down There on a Visit

わたしが読んでるのはオリジナルの Methuen 版 (1962) だが、ここにはアマゾンで買えるものを挙げておく。1928年のベルリン、33年のギリシア、38年のロンドン、41年のLA(最後の最後に戦後のベルリンとパリがちょっとある)の四つのエピソードを並べたもの。最後の "Paul" は初読です。どれもゲイないしバイセクシュアルの友人とイシャウッド自身の微妙な関係を描いている。第三部でフォースターとの書簡のやりとりが書かれていても、作中では彼はたんに「E・M」と表記されるだけとか、第四部で唐突にヨガの導師が出てくるとか、イシャウッドの人生の予備知識がないと戸惑うだろうところがけっこうあるが、面白いのは面白い。とくに第二部 "Ambrose" は、ギリシアの小島にゲイの独立国を作る若いイギリス人とドイツ人の物語で、論じがいがある。しかしなかなかはっきりとは登場人物がゲイとはわからないという……。イシャウッドは戦前の自伝的小説では、自分たちのホモセクシュアリティを隠蔽して、しかも人物名を全部変えて書いている。これはかなりフィクション性が強い本なのだが、それでも全体に隠し気味。イシャウッドのキャリアでは、最後の最後、Christopher and His Kind (1976) にならないと、みんな本名では出てこない。森嶋通夫の自伝と同じで、七十過ぎて外国住まいだとなんでも書けるようになった、ということで。
第一部の "Mr Lancaster" は、『山師』Mr Norris Changes Trains にすごく似た、なんだか怪しいきどった年長の知人を描くもの。これまたゲイ・フィクションなのかそうでないのかよくわからない……。今回最後まで読んでみて、すべてのエピソードに出てくるワルデマールという美形ドイツ人が面白かった。ランカスター氏の使用人として主人公をベルリンのナイトライフ(これがまたヘテロがゲイか判別がつかない)に案内するこの男、たいして本気ではないがちょっと共産党寄りのせいでドイツに住みづらくなったので、イギリス貴族のお姉さまの恋人として海峡を渡るが、恋人の家族からは徹底して慇懃な階級差別をうけて沈没。やがてドイツに戻って、戦後は東ベルリンで機械工になり、あまりにも凡庸な家庭の父としてイシャウッドに再会する。おそらくイシャウッドがベルリンでセックスしていたドイツ人の若者の多くは、最終的にはこのような家庭を築いたのだと思う。タイトルは、手紙でよく使う「……に旅行で来ている」という言い回し。第四部で、かつては「世界最高の男娼」と呼ばれたポールが、イシャウッドの人生態度を評することばからきている。あんたはどこにいっても旅行客、本気じゃないのだと。
この本気のなさが、わたしにはイシャウッドのいちばん共感できる部分だし、三十年代イギリスの(アッパーミドルクラスの)作家たちに関心をもつ理由なわけだが。
西荻 Granpa's Dream でクラガンモアとマッカラン。すごくいい店ではあるけど、わたしの財布には見合ってないなあ。