Pageant

荻窪「M」でたいへんに美味いピザ。二人でピザ二枚、酒二杯、サラダとデザートで〆て3300円。うーむ。ピザ屋をラーメン屋のようにやりたいという店主の心意気はわかるけど、酒とケーキはもっと値上げしたほうがいいと思うぞ。
Ayako Yoshino, "Between the Acts and Louis Napoleon Parker -- the Creator of the Modern English Pageant" Critical Survey 15-2 (2003)。ヴァージニア・ウルフ『幕間』(1941) と歴史野外劇について、歴史的に検証したもの。タイトルに出ている人物 (1852-1944) は、1905年にシャーボーンで最初の近代野外劇――地元に歴史意識を植えつけようとするもの――を演出したという。すごい名前だが、アメリカ人とイギリス人とのあいだにフランスで生まれ、洗礼を授けたフランス人に勝手にこの名前をつけられたらしい。こういう人物だからこそイギリス史にこだわったということか。多くの批評家はこの小説の野外劇について、たんに伝統的共同体の再現、みたいな言い方をしているのだが、もちろんこれははるかに意識的に組み立てられた「創られた伝統」であり、しかもウルフはそれを素朴なナショナリズムに陥らずに書こうとしている。
ちょうど数日前に読んだ Victorian Studies のマシュー・ローリンソンの論文が、レイモンド・ウィリアムズ『田舎と都会』を扱って、「伝統的な形式(この場合はパストラル)が継続するとき、その形式自体がもつ意味内容はどの程度消え去るのか」という問題を論じていたので、考えこんでしまう。つまりウルフはなぜ、あからさまにナショナリズム≒ローカル・プライド路線のイベントを小説の中心に据え、しかもそこから微妙な距離をとったのか。もちろんそうしたありかたは知的な風俗小説家としてあたりまえといえばあたりまえなのだが、野外劇を多くの批評家がたんに「伝統的」とか「ギリシア的」と呼んでいること自体は徴候的ともいえる。つまりパストラルや民芸の伝統は、政治的意味作用を欠いたものとして解釈されるので、それを持ち出してしまえば、ウルフと近代ナショナリズムとの関係について思い煩わなくてすむ。「田舎」は、明示的(政治)内容を欠いた参照元として機能するのだ。本質的に都会の作家であるウルフが、晩年にそうしたテーマを選んだのはなぜか。1900年代のナショナリズムと、もっと階級制度が変化して、もう一つの戦争が始まってからの1941年のナショナリズムの違いとか、なんか展開の可能性は無限っぽい。